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(うえしば もりへい、1883年(明治16年)12月14日 - 1969年(昭和44年)4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。
身長156㎝ながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝で知られ、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。大東亜戦争(太平洋戦争)中は軍部に有用性を認められ、陸軍憲兵学校・海軍大学校などで武術指導を行う。
終戦後息子で後継者の植芝吉祥丸と共に合気道の社会普及に務めた。合気道は日本国内だけでなく世界的に大きく広まり、柔道・空手道などに次ぐ国際的武道に育った。
(Wikipediaより引用)

怪力

京都府綾部でのこと。道に立ちふさがっていた黒松の根おこしに今まで7,8人の人たちが力いっぱい押してもビクともしなかった黒松が、盛平翁が一人でゆっくり押しつづけるとゆらゆら動き始め、根を一人で抜いてしまったのです。

心を読む

或る時、百人余りの門下生を前に植芝翁が「合気をやる者は遠くアメリカの心までわからねばならぬ」と言われたそうである。その時、木村氏はならば自分の心も分かるのかと思い、心の中で「僕を投げて」と思ったそうである(笑)すると…あらぬ方向を向いていた植芝翁が突然、木村氏の方を振り返るや、一直線に歩み寄ってこられたそうである。「盛平翁の背後にとてつもなく大きな壁があって、翁と共にドドドドドと迫ってくる」ような迫力で迫ってきた植芝翁は木村氏の前に立つと「入り身投げ」のような形で右手を上げたので木村氏はそのまま後ろに倒れてしまったそうである。

・屋内にいながら、尋ねてきている人の存在、服装がわかる。

出典津本陽「黄金の天馬」より

発射された銃弾が見える

戦前の話であるが、植芝氏の合気道場に軍隊の射撃の達人達(弾道の検査員)が稽古を見に来ていて植芝氏の蒙古での神技(銃の玉が見えて避けられた)等の話になり、植芝氏に銃の玉が当たらない事が、本当かどうかを試される事になり(事故があっても認める誓約書を書かされたという)そして軍隊の射撃場で試される事になり、射撃の標的の所に、植芝氏が立たされ、軍隊の銃撃手6人に25メートルの所から、植芝氏を狙らわせ、隊長の命令により、一成に銃が発射された、すると、砂埃が舞い上がり、植芝氏は消えて、そして、いつのまにか軍隊の銃撃手は投げ飛ばされていたいう。この実験は2回行なわれたが、2回目も同じ結果だったという(これぞ神技)!

植芝盛平のエピソードで一番驚くのが、銃弾をよけて相手を投げ飛ばしたというもので、植芝によれば、飛んでくる銃弾がスローモーションのようなスピードで見えたといいます。相手の攻撃の前に白い光が見えたとも発言しており、植芝はその光をよけることによって相手の攻撃をかわしたといわれます。

力士も野球選手も

演武会であまりの技の流麗さに「ヤラセではないのか」と会場からもざわめきが起こり、それを察した植芝氏はその場で観覧していた元大関の力士・天竜を呼び、「こんなじじいにここまでできるわけないと疑っておいでなら投げて御覧なさい」と腕を差し出した。
天竜は「このじじい何を言っていやがる」と思い切り投げてやるつもりで腕をつかんだ瞬間、鉄棒をつかんだような感覚が起こり、彼も相撲界で長くやってきて色々な経験をしているから「コレはいかん」とすぐに感づいたらしい。瞬間、あっという間に投げ飛ばされていたそうです。

(巨人軍コーチ)荒川氏が現役選手時代、植芝氏本人に合気会本部で指導を受けたときに、「ボールのつもりで思い切り打ちなさい」と自分の持っている木刀を叩かせたところ、自分が跳ね飛ばされたそうです。

蒙古で九死に一生を得る

1924年(大正13年)41歳。2月、満蒙の地に宗教国家の建設を目指す王仁三郎に随伴し出国、満州へ渡る。関東軍特務機関斡旋の元、満州の支配者・張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒される。この時の銃撃戦で、敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をする。6月吉林省パインタラ(通遼)にて、張の意を受けた支那中央政府官兵・奉天軍によって捕らえられ、盧及びその部下はことごとく銃殺。王仁三郎・盛平ら日本人一行6人も銃殺場に引き出され死を覚悟する。しかしたまたま王仁三郎らの遭難に気付いた日本人旅行者が日本領事館に通報、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は直前で中止され、九死に一生を得る(「パインタラ事件」または「パインタラの法難」)

6月21日、パインタラで王仁三郎一行は張作霖の軍に捕まり、盧占魁は銃殺されてしまう。王仁三郎たちも銃殺刑となり処刑場に並ばされるが、なぜか弾が出ない。王仁三郎は辞世の歌を7回も詠み、やがて銃殺刑は中止となった。

出典pub.ne.jp

蒙古で逮捕された王仁三郎一行。左から2人目が王仁三郎、左から3人目が盛平翁。

神秘の光?が現れる

従兄弟と二人で田辺から新宮へ行く途中闇夜で一寸先が見えないので、従兄弟が「盛平、先に行ってくれ」と言われたので「よし」と言って行こうとしたところ、俄に明るく成り、「ああ道案内が来て下さったから行きなさい」と言って、峠を越す辺りで東が白む頃「明かりにご苦労様」と翁先生が言うと、風音を残し熊野三山の方へ帰ったそうです。

合気道をマスターすれば被害者も加害者もない

聖書について話が及んだ際、「キリスト教では右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と教えているが、合気道では右の頬すら打たせない。
打ってくればそれをひょいと避ける。
これで自分は被害者にならないし、相手を加害者にすることもない。と語ったそうである。

病気の時ですら

時は昭和14年、当時は竹下勇海軍大将が植芝道場の会長だった関係で、皇族方の前で演武をしてほしいという依頼が植芝先生のもとにやってきました。
しかし、この時の植芝先生は既にながらく肝臓を悪くされていて、着物を着るにも出かけるにも、弟子の肩につかまりながらでないと動けない状態だったといいます。
(中略)
それで、演武前半の受けを担当することになっていた湯川氏は、本人自身たいへんな力持ちだったこともあり、いささか力を加減して植芝先生に掛かっていったのだそうです。
すると、あっという間に湯川氏の身体は吹き飛ばされてしまい、畳にうずくまって動かなくなってしまいました。塩田氏が思わず駆け寄って見てみると、腕が折れてしまっていた。

晩年

私が植芝翁と共にした時彼は80歳代で、小さな体でしたが非常に強い人でした。彼の終焉が近くなっていた時、弟子たちが担架で彼を道場に運んで来ました。
彼は非常に弱ってひ弱に見えました。しかし彼は突然気を集めて立ち上がり、非常に強い男を縫いぐるみのように投げ飛ばしたのです。その後彼は担架に戻り病人に戻りました。

植芝盛平先生が、お亡くなりになる三日前の話です。おもむろに便所に行くと言って立ち上がる先生を、側についていた四人の弟子が慌てて止めたことがあったそうです。それまで床に伏していたわけですから、心配だったからですが、植芝先生は、その四人を一瞬で投げ飛ばしてしまったという逸話があります。

出典塩田泰久「対人力」

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oguyanさん

いろいろテスト的にやってみてます。