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史上最大の偽書事件!? 東日流外三郡誌「つがるそとさんぐんし」とは〜和田家文書の謎

真作説もいまだにあるものの、偽作説が確実視されており、単に偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難いと言われている。

更新日: 2013年07月20日

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hina0101さん

▼東日流外三郡誌「つがるそとさんぐんし」とは?

東日流(つがる)と読みます

青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていた、という内容で、有名な遮光器土偶の姿をした「荒覇吐(アラハバキ)」神も登場する。

『東日流外三郡誌』は青森県の和田家という旧家の屋根裏から戦後に発見された古文書である。その存在が広く知られるようになったのは1975年、市浦村(現在は五所川原市に併合)が村史資料編としてその一部を活字化したからである。

まず青森県北津軽郡車力村の『車力村史』(昭和48年12月25日刊)に一部無断引用され、また、市浦村の『市浦村史資料編』(全3巻、昭和50年~52年刊)に約200巻の中の約三分の一が了解の上で引用されている。

和田がこの文書群を青森県北津軽郡市浦村に提供し、市浦村は1975年(昭和50年)から1977年(昭和52年)にかけて、『市浦村史 資料編』(上中下の三部作)として刊行した。だが後にその内容をめぐって論争が相次ぎ、大反響を呼んだ。

古代の津軽には先住民である山の民・アソベ族と、東の大陸(北米?)からやってきた騎馬の民・ツボケ族という仏の民族が争っていた。そこに中国から春秋戦国の動乱を逃れた晋の王族と、神武天皇のために大和を追われたナガスネヒコの一族が加わり、アラハバキ族という混成民族が生まれた。アラハバキ族という名称は、彼らがアラハバキという神を祭っていたに由来するが、その神の御神体こそ、一説に宇宙人を模したとも言われる、あの遮光器土偶である。

目にあたる部分がイヌイットが雪中行動する際に着用する遮光器のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇大表現と考えられている)。

現在残っている「和田家文書」のほとんどは孝季らの書いた原本ではなく、明治期頃に和田家の当主が残した写本でいずれも同じ屋根裏から見つかったものという。

結局、和田は1999年に世を去るまで約50年にわたってほぼ倦むことなく(本人の主張では天井裏にあった箱から)古文書を発見し続けた。

▼偽書では?

「和田家文書」については発見者の和田喜八郎(1999年逝去)が書いた偽書という論者もあるが、あの膨大な古文書はとても一人で偽作できる量ではない。

「和田家文書」と筆跡が同じだとして持ち出した筆跡見本は喜八郎のものではなく、その娘のものだった。サンプルの確認さえ怠るような筆跡鑑定など信頼できるものではない。

無学な農夫だった喜八郎に古文書偽作などという高度な知的作業ができるわけもない。

2006年11月、喜八郎の遺品の中から、『東日流外三郡誌』の寛政原本が新たに発見された。

著名な学者が簡単に騙されてしまう。 しかも、疑問を指摘されても、本物だと言ってゆずらない。

『東日流外三郡誌』を本物だと主張してきた学者
  ・古田武彦氏(昭和薬科大学教授)
  ・西村俊一氏(日本教育学界会長、東京学芸大学教授)
  ・武光誠氏(明治学院大学教授)
  ・新野直吉氏(秋田大学学長)
古田武彦氏と西村俊一氏は、現在でも本物だと言って譲らない。

▼じゃあ本物?

和田喜八郎の家が地元の旧家だったという事実はない。飯詰村の庄屋の姓は「和田」ではなかった。また、和田喜八郎の家は昭和期に建てられたものでそれ以前の古文書が隠されていたはずはなく、さらに戦後に新建材の天井板を張る以前には天井裏そのものもなかった(2003年に当時の家主と東奥日報記者立会いのもとに行われた調査でもその家に古文書を隠せるようなスペースそのものがなかったことが確認されている)

「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」など20世紀に入ってからの天文学用語が登場するなど、文書中にあらわれる言葉遣いの新しさ、発見状況の不自然さ(和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある、他人の論文を盗用した内容が含まれている。

「和田家文書」には1930年発見の冥王星が出てきたり、「民活」「闘魂」など江戸時代どころか明治期にもないような用語が頻出したりする。寛政年間頃成立の文献でこんなことはありえないし、明治期の書写(及び加筆)を認めたとしても、説明がつかない。

1991年から93年にかけて国立歴史民俗博物館が行った十三湊遺跡の総合調査では14世紀の大津波の痕跡や、安東水軍の実在を示す証拠は一切見つからなかった。

建物内には原本がどこからも発見されなかったうえ、逆に紙を古紙に偽造する薬剤として使われたと思われる液体(尿を長期間保管したもの)が発見され、偽書であることはほぼ疑いがないという結論になった。

喜八郎は自分が見た新聞・雑誌・テレビ番組・書籍などを片っぱしから「和田家文書」の材料として用いていたようである。三内丸山遺跡の建物にいたっては当時の雑誌などに掲載された復元想像図とそっくりで実情を知る人の失笑さえ買った。

遮光器土偶がアラハバキ神の御神体にされたのも『東日流外三郡誌』が世に出た70年代当時、超古代史ブーム、UFOブームで土偶宇宙人説が話題になったためと思われる。

『東日流外三郡誌』をはじめとする和田 家文書には、「民活」「北方領土」「闘魂」「仕掛人」など現代の語彙が含まれ、「ふる さとには歌がある」というかつての人気テレビ番組のナレーションがそのまま引用されて いたり、ムー大陸やアトランティス、富士王朝、マヤ文明、古史古伝、戸来村のキリスト の墓に、一九九九年人類滅亡予言(ノストラダムスの大予言!)といった現代のオカルト 雑誌などからひきうつしたとしか思えない記述がある。

和田喜八郎は「無学」でもなければ「農夫」でもなかった。彼は20代の頃から地元の郷土史家の手伝いをして史料を探していた(実際には自分で「史料」を作って提供していたようだ)。彼は終世、スポンサーの求めに応じて「古文書」を貸し出し、あるいはそれをタネにした埋蔵金詐欺を行うことで現金収集を得ていた。

「私の撮った熊野の石垣の写真を、熊野のものとして引用されていたなら、私も告訴はし ませんでした。それを津軽の深山の城跡の石垣として紹介されていたので、説明を求めた のですが、何も回答がなく、訂正する気もないようなので、誤った歴史観が形成されてゆ くのを、知って知らぬふりができずに止むなく訴えたのです」(斎藤「『東日流誌』につ いての総合的批判そのII」『季刊邪馬台国』五三号、所収)

「和田家文書」の筆跡は明らかに喜八郎のものと一致する。さらに新発見の「寛政原本」なるものもその筆跡は喜八郎と同じなのである。むしろ不思議なのは、それを「発見」した人がなぜそれを江戸時代のものと思ってしまったかである。

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