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【軍事】第二次世界大戦時の各国主力戦闘機まとめ

第二次大戦で戦った各国の国産主力戦闘機まとめ。主要国からマイナー国まで揃えました。なお、他国戦闘機を輸入やライセンス生産した例も多く(例:イギリス→F4F、P51。ソ連→P40、ハリケーンなど)、必ずしも自国製戦闘機のみで戦ったわけではありません。

更新日: 2018年04月27日

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holy777さん

◆第二次世界大戦時の戦闘機

第二次世界大戦は、航空機主体の戦いとなった。戦争参加各国とも国を挙げて戦闘機の改良と増産に励んだ。戦闘機はより高速を求め、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、Me262などのジェット戦闘機が誕生した。

各国が鎬を削った第二次大戦の中でも、最も激しい競争が起きた兵器が戦闘機であった。

日本海軍

初飛行:1939年3月
生産数:10,430機

 世界的にも有名な傑作戦闘機。設計者は堀越二郎。
 前作の九六式艦戦と同等の空中戦性能に加え、爆撃機護衛のため長大な航続力も求められた。また大口径の20mm機銃を装備し、様々な局面に対応出来る戦闘機となった。
 徹底した軽量化による驚異的な格闘戦性能を活かし、日中戦争から太平洋戦争序盤まで無敵と言える強さを発揮した。
 しかし大戦中盤以降は速度、防御性能に勝る米軍戦闘機が対零戦戦術を確立。一転して苦戦を強いられることとなった。後継機にも恵まれず、大戦末期には神風特攻に使用されることとなる。
 生産数10,430機は日本航空機史上最多である。

初飛行:1941年5月
生産数:477機

 海軍初の夜間戦闘機。
 爆撃機を護衛する遠距離戦闘機として開発されたが、大型の機体は運動性が悪く不採用となる。しかし零戦と同等の速度に長い航続性能を持っていたため、二式陸上偵察機として採用されることとなった。
 1943年初め夜間爆撃機対策として斜銃(機体の上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃)を現地で追加装備。この改造夜戦で次々と米重爆撃機B-17を撃墜。海軍中央から改造夜戦の制式化内示が伝えられ、丙戦(夜間戦闘機)「月光」として改めて制式採用された。
 末期には本土に来襲するB29迎撃にも使用された。

初飛行:1942年3月
生産数:621機

 海軍初の陸上迎撃機。設計は堀越二郎。
 日中戦争時に中国軍爆撃機の空襲に悩まされた海軍は、迎撃機(局地戦闘機)開発を三菱に命じた。
 火力、速度、上昇性能を重視し、大型ながら高出力の火星エンジンを装備。プロペラ延長軸を使い機体前部を絞り込んだ紡錘型の機体に仕上げた。
 しかし異常振動問題や視界不良、着陸速度が速いなどの問題に加え、墜落事故や堀越の体調不良により開発は大きく遅延した。
 1943年後半からようやく運用開始。零戦と真反対の飛行特性は多くのパイロットから不評だったが、600km/hの高速と20mm機銃×4の重武装でB-29迎撃に活躍した。

初飛行:1944年1月
生産数:約450機

 海軍最後にして最強の単発戦闘機。
 1943年、水上戦闘機「強風」を陸上機化した「紫電」が制式採用。約1000機が生産されたが元が水上機のため問題点も多かった。そこで翼を中翼から低翼に改めるなど、大幅な改良を行ったのが紫電二一型、通称「紫電改」である。
 重武装に頑丈さと運動性能を兼ね揃えた機体で、零戦の後継機として大戦末期の最重要開発機種となった。海軍航空隊最後の精鋭部隊343空での使用が有名で圧倒的優位な米軍に対し互角以上の戦いを繰り広げた。
 しかし搭載した誉エンジンの不調に悩まされ、最大出力で飛行出来ないという欠点もあった。

日本陸軍

初飛行:1938年12月
生産数:5,751機

 日本陸軍を代表する戦闘機。
 航続距離の短い97式戦闘機に代わる護衛戦闘機として開発。しかし軍が求める異常なほど高い格闘戦性能を満たせず一時は不採用となったが、太平洋戦争勃発により一転採用となる。
 軽快な運動性能と長い航続距離を誇り、海軍の零戦と比較されることも多い。また防弾に無頓着だった海軍と異なり、一定の防弾装備も備えていた。構造上翼内に機銃を装備出来ず、貧弱な火力が弱点。
 緒戦では零戦と共に日本の航空優勢を支えたが、戦局の悪化に伴い、最後は特攻に使用された。
 主力戦闘機として多数生産され、生産数は陸軍航空機中最多を誇る。

初飛行:1941年5月
生産数:1,690機

 様々な用途に使われた多用途戦闘機。
 1930年代後半、エンジン2機のパワーを活かした双発戦闘機が各国で開発される。日本陸軍も川崎に開発を命じ、何度かの仕様変更を経て二式複座戦闘機屠龍が採用される。
 しかし他国の双発戦闘機がそうだったように、単発戦闘機に比べるとどうしても運動性能は劣り、戦闘機としての評判は芳しくなかった。一方、軽爆撃機としては高速で十分な運動性能を持ち、対地対艦攻撃で大いに活躍した。
 船団護衛や戦争終盤には37mm砲や上向き砲(上方に角度を付けて装備した機関砲)で本土防空戦におけるB-29迎撃任務に活躍した。

初飛行:1941年12月
生産数:2,750 - 3,153機(諸説あり)

 日本では大戦中唯一の液冷エンジン戦闘機。
 陸軍はドイツのDB601水冷エンジンを国産化。これを搭載した新戦闘機「飛燕」は最高速度590km/hを発揮、頑丈で急降下性能の高い機体に仕上がった。
 しかし工業力の低かった日本では複雑な液冷エンジンの生産、整備に悩まされ続けた。また他の日本軍機に比して重く、米軍からは戦い易い相手と見られていた。
 本土ではB-29迎撃で奮戦。通常攻撃以外に体当たり攻撃(空中特攻)も頻繁に行われた。
 またエンジン不調解決のため、空冷の金星エンジンに換装した五式戦闘機も開発されている。

出典www.ne.jp

初飛行:1943年4月
生産数:3,488機

 陸軍が期待を込めた大東亜決戦機。
 中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性のバランスが取れた傑作機であった。624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速である。
 しかし装備した2000馬力級の誉エンジンに不調が相次ぎ、運転制限を行ったまま戦わなければならず、末期の物資不足の中で本来の性能を発揮出来ないことも多かった。
 日本陸軍最強の戦闘機でありながら、戦争末期には特別攻撃に駆り出された機体もあった。

アメリカ海軍

初飛行:1937年9月
生産数:7,722機

 アメリカ海軍の第二次世界大戦初期の主力艦上戦闘機。
 「グラマン鉄工所」と呼ばれるほどの頑丈さが特長で、高い急降下性能や防弾性能を持つ。反面、低速と鈍重な運動性能から大戦初期には零戦との戦いで惨敗した。
 しかし大戦中盤以降、米軍内で対零戦戦法が徹底されたことで対等以上に渡り合えるようになる。この時期にはF6Fに主力機の座を譲ったが、小型の護衛空母などで終戦まで運用された。
 イギリスにも供与され、「マートレット」という名称で使用されている。

初飛行:1942年6月
生産数:12,275機

 最も多くの日本軍機を撃墜した戦闘機。
 未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高める良好な防弾装備に加え、日本軍パイロットにも一目置かれるほどの優秀な運動性能を有していた。F4U開発失敗時の保険として作られた機体だったが、大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍した。
 弱点は最高速度610km/hという2,000馬力級戦闘機としては低速な点であったが、対する日本軍に高速な戦闘機が存在しなかったため問題にはならなかった。

初飛行:1940年5月
生産数:12,571機

 高速重武装の艦上戦闘機。
 当時の艦上機としては異例の大きさで、海軍一重たい戦闘機であった。持ち前の空戦性能に加え、大馬力を利用した爆装も可能であり、戦闘爆撃機としても活躍した。
 高性能であったが、その高速のため従来の空母では運用が難しく、配備後しばらくは陸上基地からの運用に留まった。戦争後期には空母運用も可能になり、海軍航空隊の中核を担った。
 第二次大戦後も配備は続けられ、朝鮮戦争にも参加した。1969年にはホンジュラスとエルサルバドルの戦争でコルセア同士の空中戦も発生し、これが最後のレシプロ戦闘機同士の空戦と言われている。

アメリカ陸軍

初飛行:1939年1月
生産数:10,037機

 双胴形式が特徴の双発戦闘機。同時期の双発戦闘機が単発戦闘機に対抗出来ない中、唯一対等に渡り合うことが出来た。
 600km/hを超える高速と重武装が持ち味。戦争初期は不利な格闘戦に挑んだことで、日本側から「容易に撃墜できる=ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」から「ペロハチ」と呼ばれる有様であった。しかし、高速を活かした一撃離脱戦法に切り替えてからはキルレシオが逆転し、強敵と認識されるようになった。連合艦隊長官山本五十六を撃墜した機体としても有名。
 欧州では対地攻撃機としても活躍した。

初飛行:1938年10月
生産数:13,738機

 連合国各国で使用された戦闘機。
 性能的には平凡な機体であったが実用性が高く、戦争初期にも量産体制が整っていたため、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。
 開戦初期には日本軍やドイツ軍戦闘機相手に苦戦したものの、国外にも広く輸出され、中国戦線やアフリカ戦線、ソ連などでも使用された。
 中国国民党を支援した米国義勇軍「フライングタイガース」の機体としても有名。

初飛行:1941年5月
生産数:15,660機

 第二次世界大戦後期にP-51と並び、アメリカ陸軍の主力戦闘機として活躍した重戦闘機。
 大柄な機体と強力なエンジンによって操縦性や機動性は良くなかったが、頑丈で強力な火力(12.8mm機銃×8)が持ち味であった。
 航続距離も長かったことから、欧州では対独爆撃機の護衛戦闘機として活躍。また爆弾搭載量も多かったことから、戦闘爆撃機としても大いに活躍した。アメリカ以外の連合国の空軍でも使用されている。

初飛行:1940年10月
生産数:16,766機

 第二次世界大戦中最強と呼ばれる傑作戦闘機。
 開発当初は米国製エンジンを搭載していたが、イギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載したことにより高性能を獲得。元々の優れた設計に優秀なエンジンがマッチし、大きな航続力、高高度性能、運動性、700km/hを超える最大速度を持つ最高のレシプロ戦闘機となった。
 戦争末期のドイツ空爆や日本空爆の際には多くのP-51が爆撃機の護衛に来襲し、日独の迎撃機を返り討ちにした。
 戦後も多くの国で運用された他、エアレースでもその高速を活かして活躍している。

イギリス空軍

初飛行:1936年3月
生産数:20,351機

 大戦を通じて主力機として活躍したイギリス救国の戦闘機。
 楕円形の翼が特徴で、優秀な空戦性能を誇った。パイロットたちからの評価も高く、第二次世界大戦の様々な状況で活躍。
 基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上によって大戦全期間を通じてイギリス軍主力戦闘機の座にあった。開発時には1,000馬力あまりだったエンジン出力も最終期には2,000馬力以上にまで強化され、最高速度も開発当初の580km/hから720km/hまで伸びることなった。最終的に23,000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。

初飛行:1935年11月
生産数:13,036機

 堅実な設計で緒戦の主力となった戦闘機。
 機体設計は旧式ではあったものの、頑丈さや被弾に対する強さに定評があった。また生産性にも優れており、戦争初期には数が揃わなかった主力戦闘機のスピットファイアを補助する戦闘機として活躍した。バトル・オブ・ブリテンではスピットファイアが対戦闘機に徹し、ハリケーンはその隙に対爆撃機に攻撃を仕掛けた。
 戦争中盤移行は戦闘爆撃機として対地攻撃に活躍した。

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