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【追悼】牧伸二さん特集【ウクレレ漫談】

あ〜 ああんあ やんなっちゃった  あ〜あああおどろいた でお馴染みの、ウクレレ漫談 牧伸二師匠。お亡くなりになったと聞き、喪失感でいっぱいです。

更新日: 2013年05月01日

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bkeeperさん

あ〜 ああんあ やんなっちゃった

ハワイアンをアレンジした曲に、「やんなっちゃった」等のフレーズで社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。現在ではレゲエやロックンロールにも挑戦している。弟子に泉ピン子、牧ひろし、牧正らがいる。

生い立ち

現在の東京都目黒区で板金屋の5人兄姉の末っ子として出生し、間もなく向島に転居。中学の1年後輩に立川談志がいる。夜間高校に通いながら東亜計器に勤める。高校1年のころ牧野周一の漫談をラジオを聞き、浅草の話術同好会「話術クラブ」に入る。

芸を認める、認めないで論争になったことも。今は二人ともこの世にいません。

「自分で歩いて(舞台に)出ていくから、車いすもつえもいらない」と、牧さんが語っていたことを明かした。その上で、牧さんが転落した丸子橋について「あそこは俺も、(立川)談志も生まれた場所の近く」と説明。牧さんは、故立川談志さんにとって私立東京高校の先輩で、「談志が(1971年に)選挙に出たときは、『立川談志が立候補して、あ~あ、やんなっちゃった』って応援にきてくれてさ。後輩思いな人。談志が連れて行っちゃったのかな…」と声を落とした。

 また、プライベートの牧さんについても披露し、「お酒を飲んで、俺の話を聞いてくれて。若いころは野球もうまく、器用な人だった。19日は追悼の寄席になっちゃうね」。最後までしんみりしていた。

盟友・毒蝮三太夫さんもこのようにコメント。

ウクレレ漫談デビュー

高校卒業後、1957年にラジオ東京(現TBSラジオ)の『しろうと寄席』で7週連続で名人位を獲得。この実績をもって牧野に正式入門を許され、牧伸二の芸名をもらうと共に、ウクレレ漫談を薦められた。当初の芸名は「今何度」(いま なんど)。当時勤務していた東亜計器が温度計を製造していることに由来する。1962年に結婚した妻は東亜計器の専務の一人娘である。

美空ひばりの母の予言

無名時代に美空ひばりの地方公演巡業の前座を務めた際、漫談が余りにも面白く会場を沸かせるため、ひばり母子に気に入られ、ひばりの母は「牧さんは今にスターになるわよ。見ててごらんなさいな」と、近い将来のブレークを予言していたという。

元祖・ステージママこと美空ひばりの母が太鼓判を押した。

やんなっちゃった節の誕生

歌うボヤキ漫談『やんなっちゃった節』で人気者になり、早くも1960年に文化放送でレギュラー番組『ウクレレ週刊誌』を持たされる。この『やんなっちゃった節』は、『タフア・フアイ』(英題"Hawaiian War Chant"、ハワイ先住民のポリネシア人の戦意昂揚歌)をアレンジしたもので、時世に応じた1500余の歌詞ストックがある一方、牧自身も舞台で原曲を披露することがある。

黄金期

1963年には日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)の演芸番組『大正テレビ寄席』の司会に起用され、番組が終了する1978年までアロハシャツ姿で司会を務める一方、名物コーナー『マキシンのバーゲンセール』を通じて『あゆみの箱』チャリティ運動を広げた。また九州朝日放送の素人演芸会『マキシンの東芝ハレハレ555』等でも司会を務めた。

1965年に第2回日本放送作家協会賞・大衆芸能賞を受賞し、喜劇映画・バラエティ番組などにも活躍の場を広げた。
1973年~1983年の間、日劇で『牧伸二ショー』を公演。浅草の芸人仲間からの信望も厚く、1999年に東京演芸協会の会長に就任した矢先、2002年に脳出血で療養とリハビリを余儀なくされる。復帰後の2003年に文化庁長官賞を受賞した。

病からの復帰と、賞の受賞。

虚実の時代を芸で生きてきた仲間たち。

1976年から、同歳の長門裕之、坂上二郎、財津一郎、藤村有弘、藤村俊二、大橋巨泉、初代引田天功、伊藤一葉、五代目月の家圓鏡(八代目橘家圓藏)らと『昭和九年会』を主宰。

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