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プチファーブル熊田千佳慕の世界がすごい

プチファーブルと呼ばれた熊田千佳慕の作品が素晴らしすぎる

更新日: 2013年05月11日

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budochanさん

熊田千佳慕さんとは

熊田 五郎(くまだ ごろう、1911年(明治44年)7月21日 - 2009年(平成21年)8月13日)は、日本のグラフィックデザイナー、絵本画家、挿絵画家、童画家。絵本画家としては、熊田 千佳慕(くまだ ちかぼ)というペンネームを用いている。

1911年(明治44年)7月21日、現在の横浜市中区住吉町に生まれる。父・熊田源太郎は耳鼻科医、長兄・精華は開港派の詩人。横浜市立尋常小学校、鶴見町立鶴見小学校を経て、神奈川県立工業学校図案科に進学する。1929年(昭和4年)には東京美術学校鋳造科に入学。1933年(昭和8年)には兄・精華の親友であった山名文夫に正式に師事する。そのつてで翌年、名取洋之助の日本工房(第2次)に入社。

グラフ誌『NIPPON』のグラフィックデザイン、レイアウト等を、山名とともに担当する。山名が日本工房を退社(資生堂に復帰)した1936年(昭和11年)以降は、東京高等工芸学校出身の藤本東五とともに『NIPPON』誌制作に携わった。表紙こそ1936年の『NIPPON』日本語版(1936年12月)と11号(1937年5月)の2号のみであるが、1936年から1937年の2年間は土門拳とコンビを組んで『NIPPON』のほとんどのレイアウトを手がけている。土門の出世作となった『NIPPON』8号の「伊豆の週末」、9号の「日本の水兵」などは、いずれも熊田のレイアウトの代表作でもある。

1937年(昭和12年)10月以降、日本工房は河野鷹思・亀倉雄策らが本格的にデザインに加わり、熊田は折り本『日本』の制作を自宅で手がけるようになる。しかし、完成を見た翌年3月頃よりのちは体調を崩し、以降、日本工房の仕事はあまり行わなかった。1939年(昭和14年)末には日本工房を退社。1943年(昭和18年)には神奈川県立工業学校の同級生であった高橋錦吉の薦めで日本写真工芸社に入社している。

なお、近年広く知られるようになった早稲田大学の1936年度と1937年度の卒業アルバムも、写真が土門、レイアウトが熊田によるもので、日本工房の平和な時代を象徴するとともに、土門と熊田の親しい関係を示すものとして興味深い(朝日新聞2006年3月28日および朝日新聞〈夕刊〉2006年5月29日参照)。早稲田以外にも、日本工房では1936年と1937年に東京女子高等師範学校(現・お茶の水大学)と慶應義塾大学の卒業アルバムが作られたようであるが、現物が確認できるものは少ない。

第二次世界大戦後は、1949年(昭和24年)のカネボウ退社ののち、挿絵や絵本のための画家に転身して活躍する。花や昆虫といった自然界を対象とした作品が多く、ジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』をテーマにした『ファーブル昆虫記』などが代表作である。70歳となった1981年(昭和56年)には、絵本の国際展として名高い、イタリアはボローニャの国際絵本展に招待出品し、以後、国際的な評価も確立する。1989年(平成元年)には小学館絵画賞(第38回)、1996年(平成8年)には神奈川県文化賞を受賞。

イタリア・ボローニャ国際絵本原画展で「クマダの虫は生きている」と高く評価され、日本人初の入選を果たした。

2009年(平成21年)8月13日未明に誤嚥性肺炎のため自宅で死去した。享年98。

生きて動き出すかのような絵は、実はたった一本の筆に少量のありふれた水彩絵の具のみで描かれている。熊田は、虫を徹底的に見つめ、「虫の心まで見極めた」と感じた時、はじめて一本の線を引く。徹底した観察にもとづく細密描写は、「小さな人たちに見せる絵にうそがあってはならない」という信念から。

熊田千佳慕作品展が人気

年老いても千佳慕の日課は、原っぱに匍匐前進スタイルで寝転がることだった。3時間、4時間、納得がゆくまで虫や草花を眺める。行き倒れの老人と間違えられることもしばしば。

 驚くのは、何と言ってもその観察方法である。ただ、ぼんやり眺めたり、写真におさめたりするのではない。

「見て、見つめて、見極める」

熊田千佳慕先生には一度お会いしたかったな、一番好きな画家さん。

熊田千佳慕先生の絵を見たい。画集じゃ物足りない。また展覧会やってくれないかな(ノω・、)

Q.「日本のプチ・ファーブル」と呼ばれた日本の細密画家 「熊田千佳慕」 A.くまだちかぼ(並べ替えでも出題)

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