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wpauliさん

徳川将軍家の末裔

小学校1年から3年までを米国で過ごす。中学生の時に劇場公開で『ゾンビ』を観て以来、ゾンビ・ファン、ロメロ・ファンとなる。その後、学習院高等科に進学、在学中は文芸部に所属していた。

その後慶應義塾大学経済学部卒業を経て、米ミシガン大学で経済学修士号を取得。財団法人国際開発高等教育機構(FASID)、国際連合食糧農業機関(FAO)のローマ本部、ベトナム(ハノイ)支部勤務。その後、コロンビア大学大学院政治学研究科を修了し、政治学修士号を取得(国際関係論)。2001年に帰国。

身長178センチ、体重105キロ。1997年頃、FAOベトナム支部勤務時代に11歳下のベトナム人女性と知り合い、恋仲となる。早々にこの女性との結婚を決意し、2001年に日本へ帰国。2006年頃、両親は猛反対したが意を曲げずこの女性と婚姻した。

お顔の印象と字の印象がぴったりですね。

水戸徳川家の末裔

1990年生まれ。慶応義塾大学体育会ヨット部出身。お名前は「なりよし」と読む。

徳川斉礼さんのツイート

@funakoshistr やめて 少しはプリンス・トクガワに興味をもって トクガワ無しの生活を想像してみ 華がないでしょ

「プリンス・トクガワ」とはご自分のこと。アカウント名も「16代斉礼」となっています。

ドンキに開店と同時に行って安い体重計を探してもらい買った 合宿所に向かう途中で袋の中見たら体脂肪計の文字 くたばれよ 電車賃返せよ

「プリンス」を名乗る割には、なかなか庶民的な金銭感覚をお持ちのようで…

@ta___ha___ 本気で殺したい

「プリンス」を名乗る割には口が悪いようで…

尾張徳川家の末裔

1961年生まれ。プログラマ、実業家。尾張徳川家の資産管理運営会社である「八雲産業株式会社」の代表取締役。徳川美術館の館長も務める。現在、徳川一門で最も裕福なのは尾張家といわれる。

1961年東京都に生まれる。学習院を幼・小・中・高と過ごし、学習院大学経済学部経済学科に入学。1982年(昭和57年)頃からプログラマの仕事をしていた。6年かけて卒業。砂原秀樹とともにJUNET協会を発足し、副会長に就任した。1994年(平成6年)に解散。2000年(平成12年)1月31日に結婚。

尾張徳川家の屋敷跡を高級賃貸住宅街にした「徳川ビレッジ」の中にあります。徳川ビレッジの家賃は月額100万円以上。

紀州徳川家の末裔

紀州徳川家第18代当主徳川剛と宝子(とみこ、1926年6月27日生)の長女として生まれたが、両親は1965年8月に離婚した。
中学生時代から建築に関心を持つ。1977年に東洋英和女学院短期大学を卒業した後、文化学院で建築を学び、1981年に卒業。同年、大成建設株式会社入社。1985年、大成建設における同僚の石橋利彦と共に株式会社石橋徳川建築設計事務所を設立。
1988年、東京建築士会評議員。1992年、東京YMCAデザイン研究所講師。建築関係で多数の表彰歴がある。
『朝日新聞』2009年10月1日夕刊「人脈記 お殿様はいま 8 「家風」それぞれ徳川御三家」で紀伊徳川家当主としてインタビューを受け、「いつの頃やら、何か自然発生的に、気がついたら、独身の私が当主におさまっておりました」「この先、紀伊家がどうなるかですって。それはもう、自然の流れにお任せするしかないのかな、と思っております」と語った。

紀州徳川家はもともと約1500億円の資産を擁する大富豪でしたが、宜子さんのお祖父さんにあたる徳川頼貞さんが1ヶ月に1億円から2億円という凄まじい浪費を何十年も続けた結果、没落してしまいました。

徳川慶喜家の末裔

1950年生まれ。写真家、著述家、コーヒー焙煎職人。

1972年(昭和47年)に成城大学経済学部を卒業し、写真家として本田技研工業グループ傘下の広告制作会社東京グラフィックデザイナーズに20年間勤務し、広告写真の分野で活躍。現在はフリーランスで活動している。フリーとして独立した後は主に徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を中心に撮影している。

自ら焙煎したコーヒー豆が"徳川将軍珈琲"の名で販売されている。

慶朝さんは跡継ぎを決めないまま離婚なさったので徳川慶喜家は断絶するかもしれませんが、前の奥様との間に2男1女がいるので血筋が絶えるわけではありません。

娘さんは某かまぼこ会社で新商品の開発のお仕事をなさっているようです。

家康公、慶喜公の血とかも、意識しないし不思議な感覚もない。周囲の人は意識しているかもしれないですが。昔のことなんて、どうでもいいじゃないですか。私はそういうスタンスです。先祖がわかっていたって関係ない。過去は大切に思うけど、それに縛られないで生きていけばいいのです。

でも、慶喜公の子孫として生まれて良いことは、もちろんたくさんありました。例えば、自分の家のことを本に書けば売れるなんて、普通はないですから。『徳川慶喜家にようこそ』は10万部以上売れています。コーヒーと本の印税のおかげで、1人で暮らすには十分な収入があるし、そういう意味ではありがたいですね。

番外編

1952年生まれ。NPO法人「徳川葵栄会」代表。日本人とロシア人のハーフ。

慶喜末裔を名乗る徳川光康が2002年にNPO法人「徳川葵栄会」を立ち上げ、講演活動を行うと共に、葵の御紋入り江戸開府400年記念限定懐中時計と称する商品の販売に協力しているが、徳川家の血を引く者ではないと『週刊新潮』2003年12月11日号に報じられた。

同誌の報道によると、光康は茨城県行方郡潮来町出身の女医とロシア人の間に旧姓名・諸星ニコラスとして生まれたが、徳川豊治(慶喜の曾孫、徳川厚の次女喜和子と戸田豊太郎の次男)と米国で親しくなったことから、1995年10月、豊治の養子となり現在の氏名に改めたという。光康を養子縁組した当時、豊治はアルコール中毒で意識不明の状態だったとも同誌は報じている。

光康は徳川氏の菩提寺である大樹寺の貫主から450万円を借金したが、返済したのはそのうち50万円のみだったとも同誌に報じられている。

戸籍上は確かに本物の徳川一門ですが、血がつながっていないものを普通「末裔」とは言いませんね。

『週刊新潮』2003年12月11日号によると、この人は「東京の大学で知り合った妻とスタンフォード大学に留学し、医学部を出た」と自称。しかしスタンフォードに照会しても在籍者の該当はないそうです。

こういう人の講演をありがたがって拝聴する人もいるようで…

徳川幕府第15代将軍徳川慶喜末裔に当たる徳川光康氏の「徳川家と江戸の町」という講話を浅草倫理法人会のモーニングセミナーで聞きました。

光康氏はスラリとした長身で、確かに徳川慶喜公の顔写真の面影の残る方でした。

血のつながりはないから面影が残ってるわけはないんですが…思い込みって怖い。

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