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強く生きる日本人 収容された第二次世界大戦中の日系アメリカ人

1941年の日米開戦当時、アメリカ国内には11万3千人の日系人が住んでいたと言われています。約12万人の日系アメリカ人は開戦と同時に財産を没収され、収容所へと送られました。同じ日本人として忘れてはならない歴史をまとめてみました。

更新日: 2014年10月29日

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日本再生さん

強制収容所へ送られる日系アメリカ人

1941年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、米国の日系人らは「敵性外国人」とみなされた。翌42年2月、当時のルーズベルト大統領によって西海岸に住む日系人ら約12万人が強制的に立ち退きを命じられ、へき地に設けられた全米10カ所の収容所に強制的に送られた。
( 2012-10-24 朝日新聞 朝刊 和歌山3 1地方 )

日本人への蔑称である「ジャップ」という言葉が書かれている。アメリカ人の「反日系人」感情に、この真珠湾奇襲は拍車をかけた。

「大統領令9066号」への署名

通称:防衛のための強制移動の権限)は、第二次世界大戦中の1942年2月19日にアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが署名・発令した大統領令。これにより、特定地域を軍管理地域に指定する権限が陸軍長官へ与えられた。結果として大統領令9066号は日系人の強制収容へ道を開くことになった。

強制収容所へ送られた約12万人の日系アメリカ人のそのうちの3分の2はアメリカで生まれ、生まれながらにしてアメリカ人(国籍)である2世、3世だった。

1942年2月3日、ロサンゼルスの造船センターで働いていた300人の日系アメリカ人が海軍により連行される。

強制収容された日系アメリカ人たちの家や財産はどうなったのですか?

自分たちの家から立ち退きを命ぜられたとき、かれらは自分で持てるだけの荷物しか持っていくことを許されませんでした。家はそのまま空家にするしかなく、家具など持っていけない財産は、足元をみたアメリカ人たちに安く買い叩かれました。

1942年4月1日に発行され、1942年4月7日までにこの地域から出て行くことを勧告している。

日系アメリカ人の強制退去により生徒数が激減した。

日系人だけに対する差別的扱い

ほとんどのドイツ系やイタリア系移民とその子孫は釈放されたが、日系移民についてはその多くが釈放されないままであった 。さらに日系移民だけに対しては、その後不動産や自動車などの私有財産を含む全ての財産の放棄や、強制収容所への長期にわたる収容が行われることとなる。

第二次世界大戦では、アメリカはドイツとイタリアとも戦争をしていたわけですが、ドイツ系とイタリア系のアメリカ人たちも強制収容所に入れられたのですか?

短い期間だけ拘留されたドイツ人、イタリア人はいましたが、集団強制収容はありませんでした。20世紀のはじめから、反アジア人、とりわけ反日本人感情が蔓延していました。たとえば、日系移民は人種差別によって、ヨーロッパ系移民と違い、1952年まで市民権を取得することはできませんでした。

日系アメリカ人強制収容についてを説明するアメリカ政府と日系アメリカ人たち

全米10箇所に設置された収容所

マンザナー、カリフォルニア州(Manzanar、1942年6月開設)
ツール・レイク、カリフォルニア州(Tule Lake、1942年5月開設)
ポストン、アリゾナ州(Poston、1942年5月開設)
ヒラ・リバー、アリゾナ州(Gila River、1942年7月開設)
ハート・マウンテン、ワイオミング州(Heart Mountain、1942年8月開設)
ミニドカ、アイダホ州(Minidoka、1942年8月開設)
トパーズ、ユタ州(Topaz、1942年9月開設)
ローワー、アーカンソー州(Rohwer、1942年9月開設)
ジェローム、アーカンソー州(Jerome、1942年10月開設)
アマチ、コロラド州(Amache、1942年8月開設)
クリスタル・シティー、テキサス州(Crystal City、1942年11月開設/司法省が管轄する拘置所)

全米10箇所に設置された収容所と、そのおおよその収容人数

Manzanar(California)  10,000人
Tule Lake(California)  16,000人
Poston(Arizona)   20,000人
Gila River(Arizona)  15,000人
Minidoka(Idaho)   10,000人
Heart Mountain(Wyoming) 10,000人
Granada(Colorado)  8,000人
Topaz(Utah)   10,000人
Rohwer(Arkansas)  10,000人
Jerome(Arkansas)  10,000人

悪臭立ち込める馬舎へ入れられた日系人

各地に設置されたこの仮収容所は、町の集会場であったりフェアグラウンドであったりしたが、中でも悪名高いのがサンタ・アニタ(Santa Anita)やタンフォラン(Tanforan)の競馬場である。急場しのぎの住まいとして日系人たちに割り当てられたのは、悪臭立ち込める馬舎だった。短期間とはいえ馬小屋に人間を押し込めるというこの処遇は、誇り高い日系人たちのプライドを踏みにじり、彼らを屈辱と絶望の谷に突き落とした。

砂漠の中の掘っ立て小屋に押し込められた日系人

板張りの壁の隙間から隣の部屋が丸見えのバラック。机も椅子もない部屋。間仕切りのないトイレ。そんな彼らのささやかな生活を、銃口を内側に向けたガード・タワー(監視塔)が昼夜を問わず監視し、有刺鉄線のフェンスが外界との接触を阻んでいた。

銃口は常に収容所の中の日系人に向けられていた。

収容所の中で日系人が仕事を分担していた。

生き抜いた日系人

収容所といえども監獄ではない。所内の移動は自由だし、個々の自主的活動はある程度認められていた。人々は収容所内で「就職」し、それぞれに見合った仕事によって報酬を得ることができた。(*3)ひとつの収容所に、およそ1万人以上が暮らすのである。これはすでに、「都市」であった。ありとあらゆる仕事があり、ありとあらゆる施設があった。農場に工場、床屋や雑貨屋などの商店、学校、教会、警察、裁判所、劇場に果ては賭博場まで。無いのは、外へ出て行く自由だけだった。

収容所内の自治

収容所内は日系人たち自身で自治と自給自足をし、所内の食事のために彼らが作った農作物は、がんらい農業に長けた日系人の本領発揮とばかりにすばらしい出来を見せ、収容所外にまで「輸出」されてアメリカ人たちの食卓を賑わした。

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