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世界最強!「日本の誇り」日本刀の起源と歴史

世に「日本」と冠せらるるものは数あれど、「日本刀」ほど古くから世界に名高いものは他にはないだろう。

更新日: 2018年10月10日

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士-SAMURAI-さん

日本刀の定義は鎬造(しのぎつくり)の湾刀のことです。湾刀とは反りのある刀を言いますが、
鎬の意味がわからない方が多いと思います。鎬とは刀を横から見た時に刀の真中にある稜線
をいいます。この稜線の部分は他よりも身幅があり、刀を二つに切った状態にすると菱形に近
い感じになります。この鎬があるために日本刀の強度は世界の刀剣の中でも最強といわれています。
出典
http://www.geocities.jp/digi_hiro2000/mukusatou/mokusatou1.html

将門の領地だった茨城県八千代町の製鉄炉跡からおよそ10キロメートル離れた場所から発見された刀



平安中期,関東に起こった内乱。平将門は,939年常陸・下野・上野の国府を占領,一時関東を支配下において新皇を称したが,940年平貞盛・藤原秀郷らに討たれた。同時期の瀬戸内海における藤原純友の乱とともに承平・天慶の乱という。

「(騎馬戦術)は坂東武士一般に皆が強いが将門が何故抜きん出ていたか、少年将門が良持について陸奥の国に行っていた時に蝦夷たちの強い騎馬戦術を身をもって体験しているでしょうし、常に緊張した状態で軍事訓練もしっかりやってるでしょうね。」

「(サラブレッドと木曽馬を)比べてみるとかなり木曽馬は背が低いことがわかります。しかし、足は木曽馬のほうが太くがっしりしています。だからこそ100キロ近い鎧武者を乗せて走る事が出来たのです」


「当時の関東武士の戦い方というのは、馬上に乗っている武士が戦うだけではなく、馬同士も噛みついたり、蹴ったり、体当たりしたりして馬と人が一体となって戦いが繰り広げられていたそうです」

「馬も一つの武器なんですね」


『堂々日本史』
「源頼朝・全国制覇の秘密〜追跡・関東騎馬軍団〜」

蕨手刀(わらびてとう、わらびてがたな、わらびてかたな)は、日本の鉄製刀の一種。蕨手刀が毛抜形蕨手刀、毛抜形太刀(太刀の起源)に発展したことから、日本刀の起源の一つとして言及されることもある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%A8%E6%89%8B%E5%88%80

日本刀の反りの直接的な起源は古墳時代東北地方の蝦夷(えみし)が用いてきた蕨手刀である。朝廷の律令軍によって東北地方が制圧支配されると蝦夷の文化・戦術(武人を含め)等が内国に伝わり蕨手刀が改良発展された結果、日本刀の原型とされる毛抜形太刀へと発展している。

まず、蕨手刀の柄に透かしをつけた毛抜形蕨手刀に改良された。これは出土状況などから9世紀初めに蝦夷自身の手によって改良されたものと見られている。

古代、刀は直刀だった。奈良から平安時代になって、伝悪呂王佩用・毛抜(けぬき)形透(すかし)蕨手刀のように、蕨手刀には反りのあるものが現れた。

 反りの誕生をもって、蕨手刀は、日本刀の「祖」の一翼を担う栄光に浴した。

 武具の進歩
これまで全国で出土した蕨手刀は、285振り(今年4月末、盛岡市教委・八木光則さん調べ)。大半が北海道を含む東北で、単独では岩手が26%と、最も多い。
蝦夷の刀ともいわれるゆえんが、ここにある。

毛抜き形透かしのある太刀は、朝廷警護の役所「衛府(えふ)」の武官も腰に帯びた。衛府(えふの)太刀は「俘囚(ふしゅうの)野剱(のだち)」とも呼ばれた、と記録に残る。

朝廷に服属した蝦夷の呼称「俘囚」を冠する太刀が、貴顕の人々をひそかに守っていた。

俘囚の刀奥州刀の優秀さを示す話といえよう。

 阿弖流為(あてるい)ら蝦夷の戦い、安倍氏の前九年合戦。以後も平泉藤原氏が統べるまで、奥州は幾多の戦をくぐり抜けた。

出典http://www.iwate-np.co.jp/sekai/sekaiisan/sekaiisan14.htm

前九年、後三年合戦とは。平安時代中期に今の宮城県と岩手県、秋田県地方で起った兵乱。
事の発端は、陸奥国府の役人と地方豪族との利権に絡む争いだったが、源氏が介入して長期間の戦争となった。
奥州12年合戦(実際は14年間)とも言われ、最終的に藤原清衡が勝ち残り、平泉文化を開花させた。

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役や後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。

毛抜形太刀は急速に普及し、衛府官人の制式太刀として採用されるに至っている。この太刀の登場により、律令的戦術から脱した武人・武官達は、中世の武士の原型を作ることとなる。

太刀 銘国平 舞草(平安時代)奥州平泉の近郊に舞草(儛草)神社があります。彼の地は日本刀の発祥の地と云われております。刀身に反りのある日本刀は平安時代の始めから中期にかけてあった奥州の戦乱で鍛えられて成立したと云われております。

日本刀の切れ味は古くから中国でも知られている。欧陽修により『日本刀歌』がつくられたことでも物語る。

昆夷道遠不復通,
世傳切玉誰能窮。
寶刀近出日本國,
越賈得之滄海東。
魚皮裝貼香木鞘,
黄白閒雜鍮與銅。
百金傳入好事手,
佩服可以禳妖凶。
傳聞其國居大島,
土壤沃饒風俗好。

鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「倭人は狠(はなはだ)、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」

鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「倭人狠不懼死、十人遇百人亦戦、不勝倶死。不戦死帰、亦為倭王主所殺。倭婦甚烈不可犯。幼歳取犀角、刔小珠種額上。善水不溺、倭刀極利。地高嶮難入、可為戦守計。」

鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌「倭人は狠(はなはだ)、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」

『蒙古襲来絵詞』前巻・絵5・第17紙
騎兵を密集させて集団で突撃する日本軍。クビライに仕えた王惲も武士の様子を「騎兵は結束す」と記している。


王惲『汎海小録』「騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なる(するどい)ものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」

王惲『秋澗先生大全文集』巻四十 汎海小録「騎兵結束。殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、銃洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。人則勇敢視死不畏。」

たびたび強調される日本刀の威力

ルイス・フロイス『日本史』
「朝鮮人は頭上に振りかざされる日本人の太刀の威力に対抗できず、ついに征服された。」


「日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。」


「従来発見された物の中では最優秀さを誇る日本軍の刀」

ルイス・フロイス『日本史』
「彼ら(朝鮮人)はトルコ人の弓のような小弓を巧みに操り、
(聞いた話によれば)毒を塗った矢を使用するという。(中略)
その他の武器には威力がなく、特に刀剣は短く、たいして役に立たない。銃床のない何種類かの鉄砲を使用するともいわれている。」

ルイス・フロイス『日本史』
「ところでシナ人たちは、日本人らが用いる武具は、自分達の武具ほど役に立たないと思い込んでいたので、日本の武具の優秀さを知る者がどんなに説明しても、人々は信じることができなかった。したがって真実を知る一部の者が、例えシナ軍は数の上で勝っていても、日本軍と戦うことは不可能であると言っても、これを聞こうとする者はいなかった。」


「日本人はシナ人よりも勇敢で、武器ならびに戦術の点で優れており、数々の面でシナ軍の劣勢は疑えない。」


明軍

『明史』320巻 列伝208
「中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息」
「我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった。」


『明史』320巻 列伝208
「朝鮮在明雖稱屬國」
「朝鮮は明の属国を称する」

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