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実は空海は和歌山で生きているらしい

最近知ったのですが、空海は実は生きているらしいです。和歌山の山中で今も修行しているらしいです。

更新日: 2013年06月26日

varaさん

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はじめに

空海といえば、教科書にも載っている歴史上の著名人。平安時代のスーパーエリートで、真言宗の開祖。みなさんご存じだと思います。

先日、偶然、和歌山県高野山を通りかかったので、奥の院の方まで行ってみました。
奥の院では写真が禁止のみならず、「私語禁止」の張り紙までありました。周りの様子を見ると、奥の院の建物の裏手であるにも関わらず、熱心に手を合わせる人が多数いらっしゃいました。

建物の正面ではなく、裏手の林の方に向かって、これだけ熱心に手を合わせるのはどういうわけなのか、理由が知りたくなりました。

そこで、少し離れたところで待機し、裏手から戻ってきた方にお聞きしました。

「すいません。あの場所はどういう場所なのですか?」と尋ねたところ
 想像を絶するお答えを頂きました。
「弘法大師(空海)さんが修行してるんです」

そこで、空海が実は生きているらしい、ということ知りました。そのあたりをまとめてみたいと思います。

教科書で見たことがありますね。

本当に生きているでしょうか?

空海[774~835]

平安初期の僧。真言宗の開祖。讚岐(さぬき)の人。諡号(しごう)、弘法大師。延暦23年(804)入唐、翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立し、東寺(教王護国寺)を真言道場とした。また、京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いた。

「弘法も筆の誤り」で有名な弘法大師ですね。

高野山は、約1200年前の816(弘仁7)年に弘法大師空海が開いた真言密教の修行道場であり、高野山真言宗の総本山である。真言宗開祖である弘法大師空海が眠る奥の院は御入定のあと、その弟子たちによって、建てられた。奥の院まで続く参道は樹齢数百年を越える杉木立が続き、数多くの歴史にゆかりのある人物の墓石や供養搭、祈念碑、慰霊碑が霊的な雰囲気をかもし出していた。

「奥の院・弘法大師御廟に続く 御廟橋。その奥に弘法大師の霊を祀る大師御廟がある。御廟は大師信仰の中心聖地でここから先は聖域とされ、写真撮影、飲食、喫煙も禁止。」

空海は生きている?

空海は、835年(承和2年)3月21日(現在の暦では4月22日)、かねて弟子達に告げていたように、入定(にゅうじょう)したと言われています。この場合の入定は宗教的な瞑想に入った事とされ、現在でも高野山奥ノ院の霊廟で空海は禅定を続けているとされています。

今も禅定を続けているってことですね。ちなみに「入定」は、即身仏=ミイラになることとは異なる概念なので注意が必要です。ミイラになったのではなく、あくまで今も深い瞑想に入っているのですね。

現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後100年以上を経た康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。『今昔物語』には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。

1日2回食事が運ばれています・・・1200年間もの間!

高野山奥の院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである。

維那が話せば、真相が分かるような・・・。

このようにして、毎日5:30と10:30に食事が届けられています。

現在の御廟の中にいる空海の模様は代々維那で他言した人はおらず、そのために現在でも生前と同じ姿で座っているのか、代わりに木像があるのか、何もない神聖な空間に食事を届けたり、引いたりしているのかこの維那以外誰一人知らないといわれています。

教えて欲しい・・・。

メニューは温かい御飯とお汁、季節の野菜を使ったおかずだそうだ。

季節感も取り入れているんですね。

肉や魚は使わないものの、日によってはシチューやパスタ、カレーだったりすることもある。

現代の洋食も召し上がるのですね。

食事は白木の箱に納められ、2名の僧侶にかつがれて、一日二回、欠かさずに霊廟前の燈籠堂へ運ばれているという。

奥の院の台所で丹念に煮炊きされた供物は、芥子色の僧衣を着た若きふたりによって担われて奥の院の拝殿に運ばれる。先頭に立つのは、維那職の僧侶である。御廟橋を過ぎ、燈籠堂へと続く長い参道を越えて、階段を登り、御廟のある拝殿へと辿り着き、供物は決められた次第に則り、執り行われる。

朝食の儀は、わずか十分たらずの儀式であるが、これが千二百年の間、欠かさず継続されてきたことに畏敬の念を感じざるを得ない。姿としては見えないが、空海さんは確かにそこにいる。そしてここを訪れる人々の空海さんへの思慕の情が、そこかしこを風となって吹き渡っていくのを感じる。

更に、年に1度入定した日に、衣服も届けられています。

「私がかって高野山で聞いたところでは、維那さんは廟所の中にいる空海の模様をその法弟や息子にさえ他言せず、代々の維那で他言した人はおらず、そのために空海が生前の姿のままで凝然として座っているのか、単に木像があるのか、それともそれらが一切なく、ただ壁と板敷だけの神聖空間があって、二度の食事の膳をささげたり、ひいたりしているのか、その辺りのことは維那をつとめた人以外は、一山の誰もが知らないと言うのである。 「知る必要がないんでもの」 と笑って私の質問を避けた若い僧もあり、その避け方の明るさが印象的であった。」
『空海の背景・下』 著著:司馬遼太郎 発行所:中央公論社 ヨリ

このように一般には空海は肉身を留めて入定していると信じられているが、『続日本後紀』に記された淳和上皇が高野山に下した院宣に空海の荼毘式に関する件が見えること、空海入定直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に空海を荼毘に付したと取れる記述があることなど、いくつかの根拠を示して火葬されたとする説もある。桓武天皇の孫、高岳親王は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされる。

史実的には、このように結論づけられているようです。

石室はどんな状態なのか?

観賢が空海の廟所に入ったと言うのは他の資料とあわせてどうやら本当らしく思える。『今昔』 の文章は匡房の文章とはちがい、眼前にその情景が、おそろしげに浮かんでくる。

 空海のなにごとかがおさまっている廟の建物の下の石室については、 『玄秘鈔』 や 『高野秘記』 が、ほぼ信じ得るかと思える。それらによると、廟窟は地下一丈五尺掘られ、およそ一間四方の石室であるという。その石室の内部に厨子を置き、その厨子の中に空海の定体(じょうたい) が安置されている。石室の天上は厚さ三尺余の大きな石で出来ていて、その上に土をかぶで、地上に五輪塔が置かれている。扉はどのにあるのかわからないが、もとは確かに存在し、開閉できるようになっていた。しかし観賢僧正がこれを開いてこのかた、永く扉を開かしめないように鎖されてしまったという。

『空海の背景・下』 著著:司馬遼太郎 発行所:中央公論社 ヨリ

この観賢と高野山の関わりの話(「東寺の観賢その人が ──高野山との 争いに勝って ── 東寺の長者を兼ねつつ高野山の座主職になり、山にのぼった。観賢は敵地に乗り込む思いもあったかと想われる。」)は非常に面白いのですが、今回は省略します。司馬遼太郎の本をじっくり読んでみたいですね。

空海は本当に生きているのでしょうか?

空海は本当に生きているのだろうか?弘法大師信仰を信ずる者なら生きて今もなお奥の院の御廟の中で修行を続けていると信じたいし、現実的には「そんなことない」と思うのも一理。

「空海の風景」のあとがきで、作者の司馬遼太郎が、「‥‥本来零であることを望んだ空海らしくていいようにも思える。」と語っています。

 私が思うのはやはり空海はゼロであり、しかも無限なのかもしれません。ゼロだけど凄い存在感。この一言で締めくくっていいものなのか解りませんがそれ以外思いつきません。

 だから現在の空海が(実態として)生きているのか、ミイラになっているのか、無くなってしまっているのかなど考えること自体、「野暮」なのかもしれません。

さいごに

荒唐無稽な話だと思いながらも、気軽にまとめ始めましたが、まとめていくうちにいろいろと考えさせられる点がありました。このほか、空海と最長、高野山の衰退と東寺との争いなども面白い点がありましたので、機会があればまとめてみたいと思います。

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ネットで出会った情報の中から、読み流すのが惜しいもの、ぜひ共有したいものをまとめて行きたいと思います。



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