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【実話】ヘンリー8世の餌食になった王妃たち【元祖肉食系男子】

話題のドラマTUDORSの元となった、英国至上最凶の暴君ヘンリー8世についてのまとめです。

更新日: 2017年05月19日

smoochieさん

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そもそもヘンリー8世って誰?w

ヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 - 1547年1月28日)は、テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、
アイルランド王(在位:1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。

ヘンリー8世 (イングランド王) - Wikipedia

薔薇戦争を終結させたランカスター家の血を引くヘンリー7世を父としてもつ。

母はヨーク朝のイングランド王の王女であるエリザベス・オブ・ヨーク。

彼らは4男4女をもうけた。

兄 アーサー(1486年 - 1502年)
姉 マーガレット(1489年 - 1541年)
ヘンリー8世(1491年 - 1547年)
妹 エリザベス(1492年 - 1495年)
妹 メアリー(1496年 - 1533年)
弟 エドマンド(1499年 - 1500年)
弟 エドワード(不明)
妹 キャサリン(1503年)

持病の通風と結核で1509年に父ヘンリー7世の死後、病弱な兄が即位せずに急死したため即位。

ラテン語・フランス語・スペイン語を自由に操る英国至上最高のインテリ

ヘンリーはイングランド王室史上最高のインテリであるとされ、ラテン語、スペイン語、フランス語を理解し、舞踏、馬上槍試合などスポーツにおいても優れた才能を発揮した。音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲 "Pastime with Good Company" など)が現存しているなど、文化史にもその名を残している。

自分に必要のないものは処刑する暴君

自分にとって不要となった妃や、トマス・モアをはじめ自分に意見をする側近達を次々と離縁・処刑し、カトリック修道院の財産を没収するなど、苛烈な暴君として有名であった。

妻であるスペイン王女から愛人の妹に心移りしたために、自らを神とする宗教を法令

世継ぎとなる王子が生まれないことを理由としたキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚(正確には婚姻の無効)およびアン・ブーリンとの再婚を巡る問題から、教皇クレメンス7世と対立した。1529年、大法官トマス・ウルジーを罷免。
側近であるトマス・クロムウェルの補佐を受け、1533年には上告禁止法(英語版)を発布し、イングランドは「帝国」であると宣言した。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイングランド国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した(en:English Reformation)。

残された数々の肖像画からもわかるように
あっちの方もすごかったようです。

一人目の妻は実兄の未亡人

キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日)は、イングランド王ヘンリー8世の1人目の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。

Wikipedia

ヘンリー8世の兄・アーサーと1501年に結婚するも、数ヵ月後にアーサーが王位敬称の前に死去したため、ヘンリー7世の死後1509年に、ヘンリー8世と結婚をし、英国王妃の座についた。

結婚当初はうまくいっていた結婚生活も度重なる流産と跡継ぎの王子が生まれないことで、ヘンリー8世との関係は悪化。

1533年には兄の妻であったという理由で結婚の無効を突きつけられる。
キャサリンは死ぬまで離婚を認めなかったが、英国王妃の座にはキャサリンの侍女の一人であった、アン・ブーリンがついた。

ヘンリーとの離婚により庶子扱いとなった一人娘のメアリーとの面会・文通も禁じられ、離婚から3年後の1536年に死去。

二番目の王妃はいわずと知れたエリザベス1世の母

アン・ブーリン(Anne Boleyn,1507年頃 - 1536年5月19日)は、イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母である。

Wikipedia

アンは姉のメアリー・ブーリンとは異なり、決して容姿に恵まれたわけではなかったがキャサリン・オブ・アラゴンの侍女になるまでをすごしたフランス式の立ち振る舞いと機転の良さ、また印象的な黒い目を武器に、ヘンリー8世の心をつかみ1533年に王妃の座を獲得する。

同年9月には別名処女王エリザベスを出産するが、キャサリンとの結婚では恵まれなかった王子誕生を望んでいたヘンリーは2人目の王女に落胆した。

1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなった知らせを聞くと、アンとヘンリー8世は黄色の衣装を着て祝宴を開き、ダンスを楽しんだが、その後、男児を流産した。

愛息子の誕生日に幽霊になって現れる三番目の妻

ジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509年 - 1537年10月24日)は、イングランド王ヘンリー8世の3番目の王妃(1536年結婚)、エドワード6世の生母。

ジェーンは一番目の王妃と二番目の王妃の侍女として宮廷に仕えていたものの、ヘンリーの目に留まったのは、1535年9月シーモア家の邸宅に泊まったときではないかといわれている。

アンが二度目の流産をした1536年頃からヘンリーとの仲が噂されるようになり、反逆罪でアンが死刑された翌日に婚約を発表し、2週間後には結婚式を行った。

翌年1537年には妊娠が発覚し10月12日には難産の末、待望のエドワードを出産したが、体調が戻らないまま洗礼式に参加したため、10月24日深夜息を引き取った。

ハンプトン・コートには毎年エドワードの誕生にジェーンの幽霊が現れるといわれている。

四番目の妻は「王の妹」?!

前王妃の亡形見エドワードという跡継ぎが誕生していたため、隣国からの孤立が進んだ英国を救う意味でも、政略結婚が進められたため、ヘンリーの腹心トマス・クロムウェルの意向を受け、王妃候補に選ばれたアン。

宮廷画家ホルバインによって描かれた当時24歳であった彼女の肖像画は、ジェーンを失ったばかりのヘンリーの心をつかみ、1539年には縁組が組まれたもの、肖像画とは異なりあまり美人ではなかったアンに対しヘンリーはまたしても離婚の道を選んだ。

離婚成立後「王の妹」という称号を与えられたアンは金銭に困ることもなく、1599年になくなるまでの余生を楽しんだ。

親子ほど年の差があった五番目の王妃

名門ハワード家に生まれたキャサリンは、父の義理の母に引き取られたが、放任主義の祖母の目が届かない間に音楽教師や母方のいとこにあたるトマス・カルペパーなどと関係を持つ。

アンの侍女として仕えていたが、ヘンリーに見初められ、アンとの離婚が成立し1ヶ月後二人は夫婦となり、ヘンリーは22歳年の離れた王妃を「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼び寵愛したが、前の恋人であったトマス・カルペパーなどと交流があると王の側近に訴えられ逮捕された。

王妃になってからは誰とも関係を持っていないと無実を主張したが受け入れられず、処刑前の演説では「トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と言ったと伝えられる。

六番目の王妃は二度の結婚でいずれも夫を亡くした才女

2度の結婚で夫を失っていたキャサリンは三番目の王妃ジェーン・シーモアの兄と交際をしていたが、ヘンリーに気に入られ1543年に結婚。

幼いころから母から熱心な教育を受けてたキャサリンはヘンリーと対等に学術談義ができるだけの知性を持っており、庶子扱いを受けていたメアリーとエリザベスにエドワードに次ぐ王位継承権をヘンリーに嘆願し、認めさせた。

また晩年のヘンリーは肥満体質であり脚の腫瘍や頭痛に悩まされていたが、58歳で持病の梅毒で亡くなるまで献身的にヘンリーの世話をした。

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