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日本の武術の水月移写とフェルトセンスとフォーカシング。

■水月

何をか水月といふ。
曰く、流儀によりて色々義理を付けていへども、畢竟無心自然の応用を水と月と相うつる所にたとへたる者なり。広沢の池にて仙洞 [=崇徳上皇] の御製に、

うつるとも月おもわずうつすとも水おもはぬ広沢の池

此御歌の心にて、無心自然の応用を悟るべし。又一輪の明月天にかかって、万川(ばんせん)各々一月の具ふるがごとし。光を分(わかち)て水にあたふるにはあらず。水なければ影なし。亦(また)水を得てはじめて月に影あるにあらず。万川にうつる時も一水に移らざるときも、月において加損なし。又水の大小をゑらぶことなし。是を以て心体の妙用を悟るべし。水の清濁を以て語るは末なり。然ども月は形色あり。心には形色なし。其形色あつて見やすき者をかりて形色なきもの譬(たとえ)とす。一切のたとへみなしかり。譬に執して心を鑿(さく)する [=まどわす] ことなかれ。

(佚斎樗山(いっさいちょざん)『天狗芸術論』吉田 (1968, 230))

水月移写とは

水ニ写ル月也。其ノ月影ヲ亦汲ミ、器ニ明ラカニウツス処也。月ハ汲ミツル水ヲ亦汲ムトイエドモ影ヲウツサズト云事ナシ

出典『一刀流剣術書』

水月ノ事

水ニウツル月也。其ノ月影ヲ亦汲、器ニウツス処也。月ハ汲ツルトイヘトモ影ウツラスト云ウ事ナシ。
自身体サハキテ不見分ニヨリ汲ツル水ニ月ナキト見ユル是ヲ狐気ノ心ト云ウ心誠ニテ汲テ見ヨ汲ツル水ニモ同月在

「敵ヲタタ打ツト思ウナ身ヲマモレ オノツカラモルシツカヤノ月」

言ハ負ナカラン太刀ニカカハルハ非也或ハ賤トイヘド己カ庵ヲ漏ルト思ハネトモ事不足シテフク故ニ月ハ一天ニアレトモ自然ニ影モル也 其の如ク敵ヲ討タント思ハネドモ己ガ一身ヲヨクマミリタレハ悪キ処ヲ不知シテ己ト勝理也手前ノ守ル事ヲ忘敵ヲ討タント思ヒ身体少少サワキタル時ハ負大ヒナルヘシ

一 心は水の中の月に似たり、形は鏡の上の影の如し。
右の句を兵法に取用ゐる心持は、水には月のかげをやどす物也。
鏡には身のかげをやどす物也。人の心の物にうつる事は、月の水にうつるごとく也。
いかにもすみやかにうつる物也。
神妙剣の座を水にたとへ、わが心を月にたとへ、心を神妙剣の座へ移すべし。
心がうつれば、身が神妙剣の座へうつる也。
(中略)
人の心のものにうつる事、月の水にうつるがごとくすみやかなと云ふたとえなり。
意の速かなること水月鏡像の如しと云ふ経文も、月が水にうつりて、さだかにあれども、
水のそこをさぐれば、月はなひと云ふ儀理にはあらず。
                  (中略)
か様に心のうつりゆく事を、水月鏡像にたとへて仏は説き給ふと也。
経は呉音によむ程に、水月(すいがつ)とよむと也。
                  (中略)
一 右の句を、又兵法の水月(すいげつ)にあてても同じ事也。              
我心を月のごとく場へうつすべし。心がゆけば身がゆく程に、立あふてより、
鏡にかげのうつるごとく、場へ身をうつすべし。
心がゆけば身がゆく程に、立あふてより、鏡にかげのうつるごとく、
場へ身をうつすべし。下作に、かねて心をやらねば、身がゆかぬ也。         
場にては水月、身には神妙剣也。いづれも、身足手をうつす心持は同じ事也』

心法としての「水月」は、大きく分けて、

①敵を写す(移す)媒体としての意味と

②間合いの意味があります(説明の都合上、間合いは心法に分類しました)。

厳密には、この2つにも繋がりがあるのですが、ここでは分けて考えることにします
(略)
ここで柳生宗矩が指摘する「水月」とは、状況に応じて心が反応し、そのまま身体も応じて動く境地を「水月」(すいがつ)と呼んでいるのです。そして、このような俊敏な連鎖を可能にするためには、心の平静を保ち無心の境地を作らなければならないとも述べています。
(略)
流派によっては、敵の心を写す(移す)のが水で、敵の身体に反応するのが鏡、という使い分けをすることもあります。

こうした心法の教えは諸流に共通のようで、(略)深甚流の「水鏡」をはじめ、幕末の神道無念流、鏡心明智流、に至るまで、多くの流派に共通の教えが存在しています。

色々な武術資料等に残る「水月移写」…(もちろん精神を支えとした身体状態…実体は、意識や無意識領域、そして肉体の隅々までも安定させていれば、自分の身体に全てを写し出す…
一般的には「月は水に写ろうとして写るのではなく、水は月を写そうとして写しだしているのではない」つまり、こちらの意識や無意識領域を含んだ全てが水面のように安定していれば、感じようとしなくてもごく微妙な水面のざわめきも感じ取ってしまう…心を鏡のようにすれば全てはそこに写し出される…
この「水月移写」という身体状態は、人間を「生物」というレベルにまでコントロールする…ことで、生物としての「反射」を可能にする…
しかし、これは一般的に言われる、運動としての「反射神経」というレベルではない。運動としての反射は、いわゆる動態視力的なものを指し、「具体的肉体運動の起こり」に対しての資格情報からの運動だ
達人の「反射」は、そういった動態視力を介在した反射なのではなく、相手の意識の揺らぎに対しての「反射」だ。つまり、運動が起こる以前の意志や意識に対しての反射…
この「生物反射」と「武術的運動」が組み合わされているのが、名人の体術の核

日野晃
『武学入門 武術は身体を脳化する』
(48-49ページ)

フェルトセンスとフォーカシング

フォーカシング(focusing)とは、
臨床心理学の用語。ユージン・ジェンドリンにより発見された、人間の体験過程とその象徴化の過程、または、それを促すためにジェンドリンが体系化した技法をいう。

1958年に『象徴化における体験過程の機能(“The function of experiencing in symbolization”)』の学位論文で博士号を取得した。
Gendlin, E.T. (1958) The function of experiencing in symbolization. Unpublished doctoral dissertation. University of Chicago

フェルトセンスとフォーカシングの概要

『現象としてのフォーカシング』
まだ言語化されていない『気になる感覚・内面にある感覚』に注意を向けて、その感覚を受動的に感じて感覚と共に時間を過ごすこと…感覚に対して特別な働きかけをするわけではない。
この気になる感覚や意味のある内的感覚のことを『フェルト・センス(felt sense)』

『技法としてのフォーカシング』
意識と無意識の中間領域で生成変化していく『フェルト・センス』に注意を向けて、…象徴化して言語で表現しようとする技法的なフォーカシング

ユージン・ジェンドリンは『技法としてのフォーカシング』をショートフォームと呼んで、 最初に身体の中心部分(胸部・腹部)にぼんやりと受動的な注意(受け身の意識)を向けて、『フェルト・センス』に気づいたら、その身体感覚に適当な言語表現(感じの呼び方)を与えるように指導
このフェルト・センスに当てはめた名前(言語表現)のことを『ハンドル』と呼ぶが、フォーカシングを効果的に進めていくためには『フェルト・センス』と『ハンドル』がぴったり一致するまで何度も…

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気功法実施中、気功師の前頭部には後頭部のα波と同期したα波の出現が見られた。即ち、後頭-前頭間におけるα波出現位相のずれ(τm)を計測すると、安静時よりずれ時間が小さくなる。この現象は気を受けた一般人にも見られた。また、気功師が特異なβ波パターンを示す時、受け手にも似たパターンが現れた。暗示による効果を極力除いた二重盲検法を導入しての実験でも、受け手のτm値は気功師同様小さくなった。両者の脳波の同調的現象から、何らかの信号が受け手に伝わっている可能性が示唆された。

Characterization of the EEG in Qigong and Hypnosis
河野 貴美子
Journal of International Society of Life Information Science 16(2), 218-229, 1998-09-01
国際生命情報科学会

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石部統久@mototchen 1963 岡山県笠岡市出身玉島育ち岡山市在住の男 糖尿病、鬱病で服薬 後縦靭帯骨化症
https://mobile.twitter.com/mototchen

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