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GMO熊谷社長が50歳に見えないので、若い頃の逸話をまとめた

GMOインターネットグループ代表の熊谷正寿氏がなんと7月17日で50歳になるとか。見た目が若いので全然見えなくてびっくりです。過去の講演で若い頃のお話をされていたのでまとめてみました。高校中退したり、17歳で釘師になったり、20歳過ぎて兄弟がいることが判明したり、何かと波瀾万丈だったようです。

更新日: 2013年10月20日

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この記事は私がまとめました

narumiさん

熊谷社長って50歳なんですか…?

熊谷 正寿(くまがい まさとし、1963年7月17日)は日本の経営者。
 GMOインターネットの代表取締役会長兼社長。
 長野県東部町(現・東御市)出身。

ほんとだ。お誕生日おめでとうございます。

でも全然、見えない

◆というわけで、熊谷さんの若いころの逸話を振り返ってみる。

熊谷:皆さんおはようございます。よろしくお願いします。僕は20歳の頃…皆さんとは違って高校を2年で中退をしてまして、うちの父が会社を経営してたので、20歳の頃はそこで勤めてました。

よく話をするんですけども、私は20歳で結婚して、21歳の時にもう娘ができまして、その娘がいま27歳で、もうじき結婚するという状況なんですけども。

熊谷:さらに皆さん放送大学ってあるじゃないですか?あの放送大学の僕は85年の1期生、1号学生でして。

田中章:最初にオープンした年に入ったんですか?

熊谷:そうそう。高校卒業資格がなくても一定期間在学して、単位を取ると正規学生になれたんですね。だから学籍番号8510000004 という。僕はたぶん一番に出したはずなんですけど、なぜか学籍番号4番なんですけど。裏口が3人いたんじゃないかって。今から考えると当時千葉局に僕深夜0時0分に願書を自分で出しに行ったんですけど、たぶん郵便局のおじさんが4つ掴んでこうやって逆さになったから4番だったんじゃないかって想像してますが。20歳の頃は仕事してました。

田中章:ネットとは関係ある仕事ですか?

熊谷:いやいや今から30年前の話ですら。

田中章:インターネットのない時代

熊谷:僕50歳。数えで50です。当時インターネットのイの字もないですね。親父の会社手伝って仕事してた、夫業してた、父親業してた、学生業もやってた。1人4役が当時の20歳の頃です。はい。

田中章:じゃあもう遊んでる時間もなく当時ずっと仕事してたんですか、当時。

熊谷:うちの父親、満州に出兵してたんですね。で帰り際に軍から「サッカリン」をもらってきたのか、盗んできたのかよくわかりませんけど、新宿の伊勢丹の裏で軍からもってきたサッカリンを使って汁粉屋をスタートしたのがうちの父親でした。そこから当時サービス産業が高度成長期にあわせてサービス産業が伸びた時期に、パチンコ店とか映画館とか喫茶店とかレストランとか不動産業なんかを展開した一代で築いた事業家でして。すごい厳しくてですね。

僕2世だから、いわゆる2世のイメージってみんなすごくたくさんお給料もらってお仕事もしないでっていうイメージあるじゃないですか。うちの父親の場合には、「お前は一番長い時間、一番安く働きなさい」というポリシーでした。僕自身は朝から晩まで仕事して、20時とか21時に帰ろうとするとうちの父親が怒鳴ってですね。

「お前は学がないんだ。優秀な大学を出た優秀な方と比べて時間短く離れてどうするんだ」と。飯田橋というところにうちの会社があったんですけど、その近くに駅前にあった富士銀行という銀行を見てこいと。当時優秀な学生さんは金融機関、銀行とかよく選んで入ってたんですね。

熊谷:父のいう通り銀行を見に行ったらですね、終電間際まで皆さん働いている。その姿を見て、僕自身も本当に深夜まで働いて、うち帰ってぐずがって起きてきた娘をあやして、その後でうちのかみさんをなだめて、家族が寝静まるとそれから勉強してるという生活をしてました。

田中章:今じゃ想像できないような世界ですね。それが今のベンチャーの下積み世界の時期だっていうことですか?

熊谷:下積みですね。

苦しい下積み時代

熊谷:しかもですね、そのとき僕が住んでたのが江戸川橋の同潤会アパートっていう所で、そこは建築の勉強されてる方はご存知だと思うんですけど、日本で最初の近代建築型アパートなんです。いまは杭っていうと通常鉄筋じゃないですか。それが松杭で建てられた地上5階建てぐらいのアパートで、松杭って水が枯渇すると腐っちゃって、傾いてるんですよ。僕そこの一番上のアパートの部屋に住んでたんですけど、うちが傾いてましたね。

いまから29年前は傾いた家に住んでて、お風呂もないしね、電気は15アンペアで、レンジとドライヤー使うとヒューズが飛んじゃって。で、いまみたいに部屋にあるヒューズじゃなくて、屋上にあるS字型の銅のヒューズで、ヒューズが一度飛ぶと翌日の朝までヒューズを交換してもらえないんですね。だからろうそくの生活とかをしてたんですよ。

戦後の話じゃないですよ。29年前の話なんですけど、そんな生活してましたね。そのときの生活が自分の理想としてた生活と違って苦しいという思いがすごくあって、それがいまの事業のベースになってるんですね。「やらなきゃ」っていう。

17歳で釘師になった。

熊谷:今日の僕のテーマは、僕今人生の中で5社上場させて、上場企業1社TOBをしたので、6社上場企業がグループにあるんですね。全体で60社以上あって、今期700億で、利益がだいたい100億に手を届くぐらいの利益を出してます。グループのスタッフは3200人いる。今日のテーマは「こんな会社を高校中退でこんなやつでもできるんだ。だから俺たちもできる」っていう自信を持って帰っていただきたいということなんです。だからいかに僕が変だったかとか、何もやってなかったかとかをそのへんをちょっとちゃんと説明したいなって思います。

田中章:ぜひ教えてください。

熊谷:僕が一番最初にやったのは、さっきちょっとお話しましたけど、父の実家を手伝ってたんですね。高校を2年で中退して、アルバイトしてました。ディスコのDJから喫茶店のカウンター、あとクラブのバーテンまで様々なアルバイトしてました。ビラ配りとかマクドナルドとか。そんな普通の若者だったんですけど、ある日、親父とおふくろが、ふすまを隔てた向こう側で寝てたんですけど、そこで「困った」という話を親父がしてまして、どういう話だったかって言うと、親父はパチンコ店のチェーンもやっていたんですね。

長野県に信州マリーというお店を、パチンコ店の名前ですけど、あと2階が喫茶店になってて街道沿い18号線沿いの脇にお店があったんですけど、そのお店の調子が悪いと。そのお店は実は、うちの母が長野県の上田市の出身任海市の出身で、そこで母の故郷に錦を飾るみたいな感じで母の実家の近くに千数百坪のものすごい土地を投資して建てたお店だったんです。親戚が一同が住んでるじゃないですか。だから店長さんとか3、40人のスタッフがいたんですけど、そのときの店長さんとかって親戚のおじさんだったりしたんですね。

田中章:家族経営の会社だったんですか?

熊谷:家族経営というか支配人が親戚だった。あとは地元の方にご就職いただいてたんですけど。その店が上手く行かない。うちのポリシーとして人種、国籍、性別、学歴、言葉、何の差別もしないんですけど、パチンコ業界って外国の方がやられてるケースもあって、あと、うちは日本人経営だったんですけど、日本人経営のお店があって、まわりから攻められてやっぱすごく劣勢だったんですね。

そのときにですね、親父が困ったと。お店やめるかどうかという話をしてて、うちのおふくろも支配人が親戚なもんだから、義理のお兄さんなもんだからおふくろも困っちゃって、親父とおふくろの関係も良くなくなりそうな感じがしたんで。

はっと、何を間違ったか、ふすまをぱーんと開けて、「お父さん、その店僕が立て直しに行くよ」って言ってですね。でなんと17歳で、それから釘の猛特訓を1 ヶ月ぐらいしたんです、釘師です。

田中章:パチンコの釘師。

熊谷社長「一部上場の社長で釘師のキャリアあるのは僕だけ」

熊谷:東証一部上場企業の社長で釘師のキャリアあるの僕だけだと思いますけど。やって、立て直しに行ったんですよ。約2年ぐらいだったかな。ありとあらゆることをもう通常のパチンコ業界じゃ考えられないような仕組みを色々入れてですね。例えば、当時は両替機がなかったので、トレーナーに100円玉のマークを入れて、両替金を持ってもらってですね、お客さんが立たないでも両替できるようにしたりとか。

後は釘でもびっくり台というのをつくってですね、朝一番に15分で打ち止めになるような台を作って、それまで閑古鳥だったお店が朝からもう鈴なりで、駐車場が入りきらないぐらいお客さんが来るようなことをしたり。まぁちょっと考えられないようなマーケティングをどんどんしていったんです。

パチンコって感覚でやってそうなんですが、当時から確率の世界のビジネスで、閑古鳥が鳴いてるお店って言うのは損益のコントロールがしづらいんです。出る台にお客さんがついちゃって出ない台にお客さんがつかないから。だけど一旦混みだすと確率の中に経営が落ちてきて、すべてのマネジメント、経営が上手くいくんです。

そういう状態まで約1年半から2年間かかりました。地域一番の繁盛店まで戻して、十数店舗あったんですけど、業績を戻して、東京に凱旋したというのがありました。このなんて言うのかな、一番最初にやった仕事がそれなんですけど、そこでのいろんな経験とか苦労、あと成功体験みたいなことがやっぱりすごくいまの経営に活きています。

田中章:そのたぶん初めてが、パチンコ店経営だと思うのですが、そこで一番学んだものって何ですか、熊谷さん?

熊谷:やっぱり定性的な話をしますと、1人じゃ何もできないわけですよね。行ったとたんに17歳が30、40歳の方たち数十人の責任者になったわけですよ。17歳ですからね。

田中章:最初の彼らの反応はどうだったんですか?

熊谷:いやみんなそりゃもう「何言ってんだこいつは?」って。

最初は孤立してうまくいかなかった。

田中章:小僧が来たみたいな?

熊谷:小僧が来たと。それでね一番最初は実は拳をいきなり振り上げて、いろいろ変えすぎてですね、何十人の方が離反するんですよ。だから孤立してしまって、本当に上手く行かなかった時期が最初2、3ヶ月あったんですね。それからそういう方々とそれこそ同じ釜の飯を食って、朝昼晩飯食って、話して、お店をよくするために相当考えて、そこの人間関係の苦労がすごく勉強になりましたね。

あとやっぱりすべてを数字で管理するっていうところが、いまのインターネットの事業とまったく同じでして、インターネット事業のいいところっていうのはすべて数字で把握できるところなので、そういうところのベースがその当時できた気がしますね。

田中章:当時は数字はどうやって管理したんですか?いまみたいにデータ分析のソフトがあったわけじゃないですよね?

熊谷:僕が一番最初にパソコンを触ったのは20代前半で、そのときには本当にパソコンすらない時代でしたので、当時は本当に手帳、計算とかそろばんでやってました。当時、僕はすごくそろばんの非効率さに気がついて、最終的に電卓を見ないで打てるようになったっていうのがありますけれども。

田中章:電卓のブラインドタッチができた。

熊谷:電卓のブラインドタッチができるようになりましたね。本当に手帳に、手帳っていうかノートに全パチンコ台の出玉管理とかをつけてね、数百台を毎日そう書くんですね。手で計算をしていましたね。

田中章:いまで言えばサーバのログ解析っぽいことをパチンコ店でやってたんですね。

熊谷:まさにそうですね。そんなことを17歳の時にやってたんです。いま49歳ですけど、僕35、36になったときに上場してますが、36歳で上場して、49歳でいまみたいな企業グループをつくることができる、ということなんですね。だから皆さん全員に、それこそやる気さえあればチャンスがある。

ただ、なんて言うのかな。孫さんもそうですし、生死の境目をさまよった話は有名ですよね。ジョブズもそうですよね。あと僕はちょっともうレベルは低いけど、やっぱり17歳、20歳、22、23歳の頃にものすごい苦労経験がやっぱあって、それがバネになるんですよね。僕みたいなのは屈折したバネかもしれないけれども、バネがある人とない人だと、発揮できる力が違うと思うんですよ。だからいまは、本当に「苦労は買ってでもしろ」って言葉ありますけど、いろんな苦労された方がいいと思います。

「まず人生のゴールを決めることが大事」

熊谷:今日の僕の提案は、先ほども言ったんですけれど、「僕みたいな奴でもこんな会社が作れますよ」という話ですよね。で、それをつなぐ為に真ん中にあった話を1つだけさせていただくと、私は皆さんと同じ位の時に、ゴールを決めたんですよ。何のゴールかって言うと自分の人生のゴールを決めたんです。

熊谷:僕の人生今はこんなに苦しいけれど、お金もないし時間もないし、家は傾いているし、本当にもう、なんだかもうこれは幸せじゃないって思ったときに、人生のゴールを決めたんです。

今は苦しいけれど、将来はこうしようって。だから航海にたとえると、まさに今風に言うならば、人生のGPSを手に入れたのか。当時風に言うんだったら、灯台を決めたってことだよね。

熊谷:大草原を歩くときに、自分の背丈程の大草原を歩くと、あとから振り返ってみると、磁石を持っていなかったら右に行ったり左に行ったりしてしまうじゃないですか、でも遠くに高い木とか高い山を見つけておけばまっすぐ歩けますよね。だから人生の灯台とか目印の木っていうのはすごい重要で、それがないと、皆さん後で振り返って人生無駄しちゃう。

それを見つけたことがいまに繋がっている。それは僕は当時、「いまは苦しいけれど、何かの産業で圧倒的一番の青年実業家になりたい」とすごい思ったんですよ。ちょっと自分で言うと恥ずかしいんですけれど、本当にそう思って、それを手帳に書いたことがいまの僕に繋がっているんです。

で、いろいろな産業を研究しました。自分自身ではそれこそいろいろな財閥であったりとか、鉄道系の東急さんであったりとか、いまちょっとダメですけど西武さんとかの研究をして、「そういう産業ってもう出てこないのかな」って、「いまは隙間産業しかないのかな」ってすごい考えたんです。そのときにマルチメディアっていう言葉が出てきていて、その先にインターネットが登場した。

「ああ、このインターネットってもしかしたら、昔でいう鉄道産業のインフラと同じようなことになり得るんじゃないかな」って気づいたのが、いまの産業に全力投球、命かけよう人生かけようと思ったきっかけなんですよ。

◆もう1つ、別の講演を振り返ってみる。

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