1. まとめトップ

わざ skillを妨げる言語と内言 Internal monologue,self-talk

思考に言語がひつようがないこと、頭の中の言葉である内言は技能習得を妨げること、ナワリズムの内言禁止についてならべてみました。

更新日: 2018年08月27日

2 お気に入り 8014 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

mototchenさん

そもそも言語って何?

言語である λόγος ロゴス は比、理性、合理

言語は意識と同じもので「意識は信号学習に無関係であり、技能や解決法の学習にも必ずしも関与する必要はない」

ニュース

人間が言葉を思い浮かべて、実際に発声せずに“脳内で”しゃべる「Subvocalization」を行なうさい、外部から観察しても変化は見て取れないが、筋肉に対して微弱な信号が送られており、デバイスはこの信号を検出しているという。

内言とは

subvocalization とは、黙読時に感ぜられる、実際には声に出さなくとも心の中であたかも音読しているかのような主観的経験を意味する。

「内言とは?」
 外言の反対語で、外言が他者とのコミュニケーションの手段です。それに対し、内言は外言が内在化したもので、思考の手段として使われるものです。

「内言の特性」
 内言の特性として、実際意識して頭の中で明確に発話するように音をイメージする内言があり、これを顕在内言と呼ぶことにします。また、この顕在内言に先行する形で、高速で完全に音としてイメージしないで、考えた感覚だけを残す内言があり、これを先行内言と呼ぶことにします。

人はたいてい,頭のなかで自分に語りかける。心理学者が「内言」と呼ぶ現象だ。この独り言は,行動の計画や感情の制御,創造性など重要な機能を助けている。  日経サイエンス2018年1月号「心のなかの独り言 内言の科学」 nikkei-science.com/201801_096.html

二種類のコトバ

クライアントを観察した時、

意識 ≒言語としてのコトバ

無意識≒身体としてのコトバ

が不調和を起こしていることが見て取れるような場合、例えば、言っていることと表情に不調和がある場合、クライアントの心で何らかの不調和(インコングルーエンス)が起こっている査証であり、これを手がかりにクライアントの抱えている課題を探ることになります。
このあたりは後に、MRI(Mental Research Institute)のベイトソン・グループによってメッセージとメタ・メッセージの関係がダブル・バインド仮説として定式化されることになるわけですが、この取り掛かりとして、サティアは、まず言葉自体のメッセージと、普段は意識に登っていない「メッセージについてのメッセージ」であるメタ・メッセージとの関係性、特に不調和について

通常は内言が言語を話す際と思考する際に必須とされる

成長段階と内言

言語=内言は思考には必要ではない

人間は、「動物段階」から離脱するとき、もともと動物の段階で持っていた「視覚で考える能力」(※あるいは、「共感覚で考える」能力)を、何らかの理由(※少なくとも、「手」が自由に使えるようになること)を経て、飛躍的に拡張化することによって、離脱した。

 「視覚で考える能力」(※あるいは、「共感覚で考える」能力)から、言葉は生み出されたが、そこから、抽象的な思考として離脱することで、さらに人間は、飛躍化できた。

 その反面、感覚を総合的に使っていた段階は、忘れ去られ、<名残>として、保存されることになった。

 だが、「視覚で考える能力」(※あるいは、「共感覚で考える」能力)は、胎児期、乳児期などには、誰でも通過している段階であり、それが一部の人には、残存することとなり、そういう人たちが、人類の様々な飛躍や知的な財産を作りだしているのは、確実だ。

深層難読症(deep dyslexia)の主な特徴は、単語を正しく読むことができないがその意味は理解できる(“I know it。 I can’t pronounce it。”)ことである…ここでは意味的誤り(semantic error)のみを見ることにする…
深層難読症の意味的誤りは一つの考え方を提案してくれる。もし我々が思考を言語によって行っているとするのならば、このような誤りは起こり得ない。 このような誤りの原因を考えるとき、例えば[soccer]を例に取ると、患者が[ボールを蹴って得点をあげる競技]という思考に[soccer]もしくは[football]という言語による名前がついているとしか考えられないからである。つまり、言語の前に思考がきているのである。言い換えると言語のベースに思考があるのである

「天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル」
まずこの本では、一般的に人は言葉で思考するものだとされ、その前提で教育も組まれているけれそも、そうではない人もいるのだという所から出発します。人の見ている世界は、思われているほど一元的ではないということです。

私は、たとえば「赤」という色を考える時、具体的な色としての赤を思い浮かべる訳ではない。むしろ、赤という色の「感覚」を考えるのだと思い至りました。
 友人にその話をしてみると、その子は単に言葉としてのredを思い浮かべるとのこと。そして、「ある色を思い浮かべる時、色を思い浮かべるタイプと音/言葉を思い浮かべるタイプがいるらしい」と教えてくれました。
 でも私は、どちらでもなく、「感覚」だと思いました。
 しかし、この「感覚」と私が呼ぶもの、ごく当たり前のものだと思っていたのですが、どうも違うらしいと、この「天才と発達障害」を読んでから気づいてきました。

1 2 3