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京都の街を震え上がらせたテロリスト「幕末四大人斬り」

幕末四大人斬りと言われる「河上彦斎」「中村半次郎」「岡田以蔵」「田中新兵衛」の4名について、まとめてみました。四大人斬りといっても、暗殺した人数や生き方はそれぞれ異なりますが、京都の町で暗躍した当時は恐れられていたようです。

更新日: 2018年09月30日

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yuk999jpさん

幕末四大人斬りとは?

幕末四大人斬りとは、江戸時代末期(幕末)に暗躍した四人の人斬りの総称。
 ・肥後藩 河上彦斎
 ・薩摩藩 中村半次郎
 ・土佐藩 岡田以蔵
 ・薩摩藩 田中新兵衛

人斬りと言えば、一人で斬るイメージがありますが、どうやらそんなことは無いようですね。人斬りとはいっても3,4人で行うのが普通のようです。

我流剣術で抜刀術が得意だった「河上彦斎」

天保5年11月25日(1834年12月25日) - 明治4年12月4日(1872年1月13日)
・尊皇攘夷派の日本の武士(熊本藩士)
・剣は我流
・明治四年時の政府に反抗して、斬罪の刑に処せられ、不運の最後をとげた

一般的に「人斬り彦斎」などと呼ばれているが、彦斎が斬った人物で確実なのは佐久間象山だけで、後はいつ誰を何人斬ったのかは明確に伝わっていない。

新撰組が池田屋を襲撃した池田屋事件で宮部が討たれたことを知ると、河上はすぐに上京し、長州追放及び池田屋事件の黒幕であった佐久間象山を暗殺する。

暗殺時に象山は落馬し、彦斎は片手なぐりに横にはらい、象山の胴をはらった。象山は屈せず、刀をぬいたが、彦斎はこんどは真向からふりおろし、顔を斬りわった。

象山を斬った後、彦斎はこのように語った。
「わしはこれまで、誰を斬っても、わら人形ば斬るように、平気じゃったばってん、今日は違うた。はじめて人間ば斬る気がして、髪の毛のさか立つ気がした。象山はたしかに絶代の豪傑じゃ。こぎゃんことばかししとると、わしのいのちも長うなか。もう人斬りはやめるばい」

彦斎が人を斬る際は、右足を前に出して折り、左足を後ろに伸ばして膝を地面すれすれに接し、右手一本で斬りかかる居合い的な「逆袈裟の斬り上げ」だった。

平生は礼儀正しい温和な人物であるが、反面平気で人を切る残忍性も併せ持っていた。

天才的剣客としての技は、当時比類なしといわれて、彼をつけねらった鬼剣近藤勇でさえ、対面すると思わず避けて通ったといわれる。

小柄(150cmほど)で色白で女性のようだったらしい

示現流の達人だった「中村半次郎」

天保9年(1838年)12月 - 明治10年(1877年)9月24日)
・家の周りの立ち木を相手に腕を磨いた自己流の示現流
・薩摩藩から依頼され人斬りを行っていた
・西南戦争では薩軍総指揮官だったが、明治10年9月24日岩崎谷で額を打ち抜かれ戦死

示現流の名手であり、「人斬り半次郎」という異名があった。

京都の白昼に、半次郎は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いた。赤松は鉄砲に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけ、赤松は倒れかかった。そこを田代が背後から横に斬り払い、赤松はそのまま倒れた。その後、直に留めを刺して、討ち果たした。

つけ狙って殺したわけではなく、たまたま京都市中で遭遇し、幕府の密偵である、ケシカランとして斬り捨てたようです。

彼が暗殺者として京や大坂を暗躍したという裏付けや証拠はありません。

人をすれ違いざまに斬りながらも瞬時も立ち止まることなく相手をたおしたとも言われる抜刀術を得意としていた

新撰組をして「薩摩の中村半次郎には決して関わるな。」とまで言わしめるほどの剣士だった

・雨粒が屋根の軒先から地面に落ちるまでに3度抜刀して3度鞘に納めることができた。
・薪を宙に投げ、地に落ちるまでに8回斬りつけることができた。

半次郎は、援けを求めてきた相手にはすべて手をさしのべてい
 ます。そしてそれは、たとえ自分の立場を悪くする人物に対し
 ても同じでした。

中村半次郎はとても優しい人だったといいます。

鏡心明智流の達人だった「岡田以蔵」

天保9年1月20日(1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)
・江戸時代末期の土佐藩郷士、志士
・鏡心明智流の剣法
・土佐勤王党から依頼され人斬りを行っていた
・土佐勤王党の獄が起こるや捕縛され,井上殺害を自白して斬刑に処せられた。

天稟の剣才があり、大男だったのですが動きが俊敏だった

一時は坂本龍馬の紹介で、勝海舟の護衛をつとめました。勝海舟が京の夜道で刺客に襲われた時、以蔵がそれを救っています。

井上佐市郎暗殺(文久2年8月2日)
本間精一郎暗殺(文久2年閏8月20日)
宇郷重国殺害(文久2年閏8月22日)
猿の文吉殺害(文久2年閏8月30日)
四与力殺害(文久2年9月23日)
平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し(文久2年10月9日)
多田帯刀暗殺(文久2年11月15日)
池内大学暗殺(文久3年1月22日)
賀川肇暗殺(文久3年1月29日)

以上9件について、岡田以蔵が関わったとする説が存在する。

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