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誰が作ったのか?鎌倉の大仏の謎はけっこう深い

鎌倉の大仏は謎に満ちています。誰が何の目的で作ったのか、本殿があったらしい。謎に思いをはせて、いざ鎌倉へ。

更新日: 2014年09月05日

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kaizinさん

誰が作ったのか、まだわかっていない

木造の大仏の後に現在に残る銅
造の大仏が造られるわけですが、こちらがいつ、誰によって造られ
たのかが謎なのです。

最初は木造だったけど、青銅で作り直された

当初、木造の大仏と大仏殿が建てられたが、大風で倒壊してしまい、建長4(1252)年、現在の青銅製の大仏が鋳造され、大仏殿に納められた。

『吾妻鏡』暦仁元年(1238)三月二十三日条に「相模国深沢里で大仏堂を造営する儀式があり、浄光という僧が浄財を勧請してこの企画を行った。」と大仏造立が始まったことが記されています。また『関東紀行』仁治三年(1242)によると、大仏の完成とこの大仏が奈良の大仏と異なり木造であることが記されています。翌『吾妻鏡』寛元元年(1243)六月十六日条に木造大仏と大仏殿の完成が記されています。ところが僅か9年後の建長四年(1252)八月十七日条に、同じ深沢里で金銅八丈の大仏の鋳造が始まったことが記されています。

津波で流されたことがある

平成12年(2000)に行われた発掘調査の結果から、嘗ては60余の礎石に支えられた大仏殿が建てられていたことが判明。

その礎石にしても大きさなもので巨大な建物が存在したことが窺い知れますが、明応7年(1498)の東海地震に依る大津波で損壊・流失したと云うのですから、かなりの高波が襲ったのでしょうね。

現在の海岸線からはかなり離れた場所に位置することから不思議に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、当時の海岸線は長谷寺門前の交差点辺りまで迫っていた

鎌倉大日記にある明応津波の記述は以下の通りです。

「明応四乙卯八月十五日、大地震、洪水、鎌倉由比浜海水到千度檀、
 水勢大仏殿破堂舎屋、溺死人二百余」。

これを現代語に訳すと、

「明応四年八 月 十 五 日(1495 年 9 月 3 日 )、
 大地震と洪水があった。鎌倉由比ヶ浜の海水が千度壇に至った。
 水の勢いが大仏殿の堂舎屋を破った。
 溺死人は二百名あまりを数えた」

という風になります。

『鎌倉大日記』には津波の到来が1495年と記されているが、最近の研究によってこの記述が1498年の明応地震の津波によるものだと判明した

鎌倉の大仏の謎を解き明かす書籍

大仏の謎を追求した本。当時の宗教勢力の分析から、大仏が作られる経緯を推理している。極楽寺が壮大な権力を持っていて、その関連から大仏制作が明らかになる。

馬淵和雄氏は『鎌倉大仏の中世史』で河内鋳物師や石工の集団を関東に連れてきたのは忍性であろうとされている。鋳物師は鎌倉大仏の鋳造や梵鐘の製作にあたり、大和の大蔵派石工集団は結界石や五輪塔の製作ばかりでなく、全国各地の板碑の爆発的な発生にも関与していたとおもわれる。

ポイントは忍性

忍性は真言律宗の僧侶です。

律宗は奈良時代に国家によって公認された仏教研究者集団の一つで、鎌倉期の律宗はその復興活動と考えられていましたが、

宗教学者の松尾剛次先生の著書によれば、叡尊教団とそれまでの律宗では立場的にも教義的にも決定的に異なり、鎌倉期の律宗は鎌倉新仏教と理解すべきであると説いています。

忍性は病舎などを設け、多くの難病患者の治療にあたっていた他、貧困層や孤児、更には馬などの動物にいたるまでその救済活動に努めていました。

ところがその反面、

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