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nekoyanagiさん

近代の送り火

現代では五山で行われているが、近代には他山でも行われていたとされる。

以前は点火していたとされる送り火

「い(かながしら)」(京都市左京区市原)[12]
「一」(京都市右京区鳴滝)
「竹の先に鈴」(京都市西京区松尾山?)
「蛇」(京都市右京区北嵯峨)
「長刀(なぎなた)」(京都市右京区嵯峨観空寺)

このうち、「竹の先に鈴」の点火地については、田中緑紅の『京都』では松尾山とされているものの、明治20年代の日出新聞(現在の京都新聞)の記事では、左京区静原[13]、あるいは、左京区一乗寺[14]とされている。

これらの送り火がいつ頃消滅したのかはっきりとしていないが、明治時代から昭和初期頃にかけて徐々に数を減らし、現在の五山に減少した後に、五山送り火という呼称が定着した。

1.左京区市原の「い(かながしら)」

小椋純一教授-京都精華大学
:人文マガジン:森林をみれば、文化や歴史が見える?

この大学に近い市原(電車で2駅)にも「い」の字の送り火があったことを知っていますか? 明治30年頃まで、京都周辺では最大級の送り火があったのですが、その送り火が消えた原因をしらべてみると、どうも植生の変化が関わっているようなのです。

→樹木が生い茂って遠くから見えなくなったせいで消えた?

では現在「い」の字は何故行われていないのだろうか。伝聞によると、同字は明治時代の初頭まで行われていたという。「い」の字はむかしより左京区の市原野(現在の静市市原町)の山中にて行われていた。近年の研究成果 によれば、標高約800メートルの地点に設けられ、現在の五山送り火を凌駕する規模であったという。ところが明治後期になると、「い」の字の山の前面 (南面)に位置する上賀茂山中の山木が繁茂し、市中の三条大橋付近などから文字が見えにくくなっていたというのである。かくして江戸時代から連綿と続いていた「い」の字は行われなくなってしまったのである。

2.右京区鳴滝の「一」

この送り火については、消えた理由など詳しいことがわかりませんでしたが、『京都大事典』(淡交社, 1984)によると、享保二年(一七一七)の「諸国年中行事」には”市原の「い」、鳴滝の「一」”という記述があるそうです。

3.「竹の先に鈴」

この送り火のあった場所は、一乗寺、静原、西山松尾山等といろいろな謂れがあり、定かではないようです。

『京都の不思議』のp244~246の出典となった『京の大文字ものがたり』のp164~167「失われた送り火」によると…(略)…「竿に鈴」「竹先きに鈴」については様々な記述があり、一乗寺、静原、西山松尾山等の地名がみられる。

4.右京区北嵯峨の「蛇」

5.右京区嵯峨観空寺の「長刀」

4,5についても、詳しい情報は得られませんでしたが、この地域の近くに存続している嵯峨鳥居本の「鳥居形」の送り火があります。もしかして合理化のようなかたちで消滅したのでしょうか?

「い」「一」については江戸後期の絵図や地名からおおよその位置が割り出せるが、ほかの送り火は場所に関する詳しい説明がみられない。古い地名を頼りに、これらの送り火があった場所を前出の植木元教授に類推してもらった(イラスト)。「蛇」は大覚寺の北部、「長刀」は高尾の方ではないかという。

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