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2パックとビギーはなぜ殺されたのか ヒップホップ東西抗争とは

かつて1990年代半ばにヒップホップ東西抗争と呼ばれる事件のがあった。アーティスト達は元々ギャングであり、当然ファンの中にもギャングが多勢いた。そして遂にギャングの裏で糸を引くマフィアまでこの抗争に参戦。ヒップホップの東西抗争は、アメリカ裏社会の東西抗争へと発展する。

更新日: 2013年09月09日

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hjhorseさん

ヒップホップ東西抗争とは

かつて1990年代半ばにヒップホップ東西抗争と呼ばれる事件のがあった。東海岸を代表するディディ(パフ・ダディ)、ノトーリアス・B.I.G.擁するバッド・ボーイ・エンターテインメントと、西海岸を代表するスヌープ・ドッグ、2パック らが所属するデス・ロウ・レーベルの対立がエスカレートしていったのだが、アーティスト達は元々ギャングであり、当然ファンの中にもギャングが多勢いた。
そして遂にギャングの裏で糸を引くマフィアまでこの抗争に参戦。ヒップホップの東西抗争は、アメリカ裏社会の東西抗争へと発展する。

2人の若き才能

ラッパーを目指す為高校を中退し、MCニューヨークという名前でラップを始める。その間はドラック・ディーラー等でお金を稼ぎ、貧しい生活をしていた。彼はデジタル・アンダーグランド(以下DU)という人気を得ていた個性的なラップ集団に認められ、91年に加入する。(2PACはDUのツアーで来日している。) 彼はラッパーとして、DUの"THIS IS AN E.P. RELEASE"でレコード・デビューを果たした。

10代からラップを始めた彼は、4曲入りデモ・テープがヒップホップ誌「THE SOURCE」の「UNSIGNED HYPE」コーナーに紹介されると、ショーン・パフィ・コムズ(現:P.ディディ)の目に止まり、彼が設立した新レーベル=バッド・ボーイと契約。メアリー・J・ブライジの「リアル・ラヴ」のリミックスにゲスト参加するなど注目を集め、94年にアルバム『レディ・トゥ・ダイ』で華々しくデビュー。「ジューシー」「ビッグ・ポッパ」などの大ヒットを連発し一躍スターダムに。

事件の始まり

94年11月30日。2pacはリトルショーンのレコーディングに参加する為、ニューヨーク・タイムズ・スクエアのクアッド・レコーディング・スタジオを訪れていた。
そのスタジオの2階には、バット・ボーイの”ビギー・スモール”と”パフ・ダディ”が別の部屋を借りており、レコーディングを行っていた。

突然、2PACはエレベーター付近で、武装した2人組に襲撃され、銃弾5発をくらった。そして4万ドル相当のジュエリーを盗まれた。(なんと1発は頭をかすったという)

彼は、病院を強引に退院し、翌日、以前のレイプの件で、マンハッタンの法廷に車椅子で現れた。そんな痛々しい姿でも法廷は厳しく、有罪を言い渡し、1年半から4年半の禁固刑となった。

そして、ニューヨークの刑務所に護送される間に、銃撃はバット・ボーイ・レーベルの仕業ではないかと思い始める。

抗争の泥沼化

獄中で二人への憎悪の炎を燃やす彼の下に、デス・ロウ・レーベルの代表シュグ・ナイトが訪れたのだ。
彼は「デス・ロウ・レコードへの移籍を条件に保釈金を支払う」と取引を持ちかけた。

2Pacはこれを快諾、出所するとすぐさまデス・ロウ・レコードに移籍。

この事がきっかけで東西のアーティスト同士のBeef(歌詞の中で相手をこき下ろすこと)がエスカレートしていく。実名の誹謗中傷がリリースされる曲の中で堂々と行われ、お互いのライブの妨害やファンの間でのトラブルは日常茶飯事となりギャングの銃撃戦も起こる事態となる。

抗争の終結

ギャングやマフィアなど裏社会をも巻き込んだ抗争は最悪の結末を迎える。

2パックは1996年9月7日、ラスベガスで友人でもあるマイク・タイソンのファイトを観戦後、横付けされたキャディラックからの銃弾を4発被弾し、同月13日死亡。25歳没。

その後、今度はビギーがロサンゼルスでヒップホップ雑誌『VIBE』主催の「Soul Train Music Award」パーティーの帰途に銃撃を受け、セカンドアルバムリリース前の1997年3月9日に死亡した。

二人の死をもってやがて事態は沈静化へ向う。だが2013年現在、2つの事件の犯人は捕まっておらず真相は謎に包まれたままとなっている。

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参考サイト

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