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戦中戦後の歴史に埋もれた「昭和の4連続超巨大地震」

敗戦をまたぎ、1943年から1946年にかけて、4年連続で日本列島を襲った巨大地震を知っていますか?。「戦中戦後の4大地震」とも呼ばれるこれら地震は、終戦間際から戦後間もなくという時代背景から、震災そのものが十分に伝えられていないのも事実です。そんな「4大地震」について、簡単にまとめています。

更新日: 2013年09月03日

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00mashimashiさん

”第二次世界大戦中と大戦後に起きた4大地震は、戦中戦後の国民の士気を下げない為に、殆どの記録が闇に葬り去られてしまったと言われており、現在、僅かに残されている資料の数字もかなりの修正を掛けられている可能性が高くなって来たとのコメントも出始めていると言われています。”

引用元:http://goo.gl/86l4zY

1945年の敗戦前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した昭和の4大地震

1943年の鳥取地震、1944年の東南海地震、1945年の三河地震、1946年の南海地震は、「戦中戦後の4大地震」と言われている

しかし、これらの地震は戦火と戦後の混乱に埋もれ、震災そのものが十分に伝えられているとは言いがたい

だが、終戦を挟んだ昭和の地震活動とその被害は、今後の日本の防災にとって極めて重要な教訓をはらんでいる

1943年9月10日 鳥取大震災(マグニチュード7.2)

”激しい揺れにより、鳥取市の中心部は壊滅し、古い町並みは全て失われた。木造家屋のほぼ全てが倒壊した一方で、五臓円薬局ビルなど鉄筋コンクリートの建物は比較的持ちこたえた。総被害は、死者1083人、家屋全壊7485戸、半壊6185戸、焼失251戸、被害総額は1億6000万円(当時)であった。”

引用元:http://goo.gl/4xrzog

昭和18年、鳥取大震災と呼ばれる大地震が発生。市内の住宅の7割以上が全半壊し、甚大な被害を出した

この地震は、鳥取平野付近を震源域として発生した陸域の浅い地震で、鳥取市で震度6、岡山市で震度5が観測された

この地震では、死者1,083名、家屋全壊7,485などの被害が生じ、また、道路、堤防など、土木構造物への被害も出た

また、地震の影響による液状化現象も見られた地域も存在し、山陰本線や因美線といった鉄道もこの被害を受けたため、長期間にわたって鉄道が不通になった。

また時間帯が夕食前だったが災いし、市内数か所にて火災が発生するも、市民による必死のバケツリレーにより大火にならずに済んだという

1944年12月7日 東南海地震(マグニチュード8.0)

”現在の紀勢町錦支所に残されている『昭和大海嘯記録』という記録によると、「午後1時40分前後に遠州灘を中心とする一大地震が突如として起こり1分8秒に及んだ。町民一同驚き戸外に飛出津波の襲来を心配したが、10 数分にして大津波が押寄せた」「大半の民家は見る見るうちに将棋倒しとなり、間もなく津波はひき始め、倒壊家屋の古材が浦に充満した。」と書かれている。”

引用元:http://goo.gl/wA8zDe

九州から東北・北海道の一部でも揺れが観測されるほどの強い揺れだったと言われている昭和東南海地震

海洋プレートの沈み込みに伴い発生した地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した

建物の被害としては、橋梁172カ所、道路773カ所、堤防351カ所の損壊に加え、工場全壊1731棟、同半壊1281棟、流失81棟があったと報告されている。

特に三重県では、地震後に発生した津波による被害が大きく、志摩半島以南熊野灘沿岸の町村では、多くの死者・行方不明者が出た

三重県での被害は、死者・行方不明者 406人、負傷者 607人、家屋の倒壊 11,558戸にも達しました。

しかし、同地震の被災記録は戦時中の報道管制でほとんど残っておらず、詳細ははっきりしていない

発生時が戦時中であったため、軍需産業の拠点が壊滅的被害を受けていると海外に知らせないために軍部が情報統制を行っていた。

津波の被害に遭った三重県、島勝浦の住人の証言
「昔から、地震がきて二時間後ぐらいに津波が来る、と伝えられていましたが、この津波は直ぐに来ました。磯は皆、真っ赤になっていました。湾はすり鉢のように見えました」

島勝での聞き取りより。震源地が近かっただけに地震発生から津波襲来まで、10分で押し寄せたと言い、時間があまりにも短かった事が伝えられています。

1945年1月13日 三河地震(M6.8*M7.1という説もある)

”この三河地震によって、愛知県額田郡幸田町では延長20kmの大規模な地震断層が発生した。この断層は現在深溝(ふこうず)断層と呼ばれている”

引用元:http://goo.gl/5kkj5J

東南海地震のわずか37日後、1945(昭和20)年1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生

この地震は昭和東南海地震の余震だとも言われています。

三河地震については死者2652人と報告。未明の発生で「人的被害が非常に大きかった」とされている

その他、負傷者3866名、住家全壊7221戸に上ったと言われる。死者が多数に上ったのは、全壊家屋の多さに加え、被災時が夜半で、ほとんど就寝中であったからと思われる。

また、軍需産業地域の直下で起こったため、規模の割に大きな被害を出した

このため、この地震が敗戦を早めたといわれている。(中部工業地帯の軍需産業の拠点が壊滅状態に陥ったため)

この地震では、最大震度7の局地的な大被害をもたらしたが、東南海地震と同様、「隠された地震」である

太平洋戦争の最中に発生したため、軍部が国民の戦意を低下させないために情報統制を行ったため、詳しい被害状況があまりわかっていない。

1946年12月21日 南海道地震(マグニチュード8.1)

”「南海地震」と呼ばれる海溝型の巨大地震の、その最古の記録は、「日本書紀」に記された684年の「白鳳南海地震」であるが、それ以来昭和21年(1946)年の「昭和21年南海地震」まで、8回の南海地震の記録が残っている。このうち一番新しい時代に起きた三度の南海地震、すなわち昭和21年南海地震(1946)、安政南海地震(1854)、宝永地震(1707)を比較すると、それらの間にはかなりの規模の差があったことが知られ、昭和南海地震が一番小さく、安政南海地震が中程度、宝永地震が大型の南海地震であったことが知られるのである。”

引用元:http://goo.gl/i9ooep

南海地震ともいい、1946年12月21日に、紀伊半島南方から四国沖に起こった巨大地震で、マグニチュードは8.1に達した

この地震は、奥羽地方の北部と北海道を除くほとんどの地域で有感観測され、関東大震災を上回る規模のものであった。

とくに強震であったのは、和歌山・徳島・高知・三重・愛知・岐阜の各県で、被害は全体で、死傷者・行方不明6603人、全半壊家屋3万5105戸、焼失家屋2598戸であった

”この地震で最も大きな被害をこうむったのは四国地方で、なかでも高知県西部は、音信不通でしばらく消息がつかめなかった。24日の「朝日新聞」は、第一報として「土佐中村、瞬時に八割全壊」「惨状は言語に絶す」と報じている。また、徳島県の被害については「最もひどかったのは浅川で、満足な家は一軒もない。田畑はすべて砂河原と化し、町の道路という道路は、家のかけらで足の踏み場もない。人々はなべ一つぶらさげて、たき出し米にありつこうと右往左往している状況だ。沖には数千の屋根が、破船の材木などとともにプカリプカリと浮いている。」と惨状を報じた。

引用元:http://goo.gl/j4prce

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