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3000年以上続くユダヤ人迫害の歴史

ユダヤ人迫害の歴史は、紀元前まで遡ることができる。ヒトラーだけが悪役であるかのように引用されることがあるが、同様の虐殺行為は歴史上繰り返されてきた。

更新日: 2017年11月30日

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palezioさん

古代にはじまるユダヤ人の歴史

『出エジプト記』は、旧約聖書の二番目の書です。『創世記』の後を受け、モーセが、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれています。

第19王朝(1320ー1200)の時代であろうと言われている。

出エジプトの出来事は世界史的には規模の小さい出来事であったが、 これを体験したヘブライ人の集団とその子孫にとっては忘れられない大きな出来事であった。 人間的には不可能に見えた脱出に成功し、そこに彼らは自分たちの先祖の神、主の特別の御業を見た。 この歴史上の実際の体験を通じて、彼らはその神が如何なるものであるかをも知り、 全く新しい神認識に至ったと言うことである。

出エジプトの記録は、旧約聖書の記述である。これは、実際に出エジプトが史実であったとして数世紀後に書き留められたものであろうから、宗教的な観点などからの修正が行われている可能性は高い。だが、ユダヤ人の迫害され、脱出し、離散するという経験の一つとして宗教的記憶に留めたことは間違いない。

聖書に記録されるユダヤ人の歴史

新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件

紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。

バビロンのユダヤ人たちは、バビロニアの圧倒的な社会や宗教に囲まれる葛藤の中で、それまでの民族の歩みや民族の宗教の在り方を徹底的に再考させられることになった。宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになり、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教としてのユダヤ教を確立することになった。また、この時期に神ヤハウェの再理解が行われ、神ヤハウェはユダヤ民族の神であるだけでなくこの世界を創造した神であり唯一神である、と理解されるようになった。

ローマ時代

エルサレムを含むパレスチナ地域は、ローマの属州「ユダヤ属州」という地位で存在した。多神教のローマに対して不満を持ったユダヤ人は第一次ユダヤ戦争、第二次ユダヤ戦争という二つの大きな反乱を起こし、ついにローマに滅ぼされ、完全な離散民族となった。

ローマ皇帝ハドリアヌスの治世に発生したバル・コクバの乱の後、ユダヤの痕跡を一掃する目的でローマ様式に再建されたエルサレムの新名称。

宗教に寛容だった時代のローマ帝国だったが、ユダヤ人の反乱があいつぎ、ついに聖地エルサレムから追い出されることになる。

ローマ属州としての「ユダヤ」は「シリア・パレスチナ」と改名された。「パレスチナ」とは聖書に登場し、ユダヤ人のライバルであった「ペリシテ人の地」を意味した。現代でもユダヤ人はシリア・パレスチナに敵意を見せることが少なくない。

出典ameblo.jp

ユダヤ人は「かつてエルサレムと呼ばれた街」へ立ち入ることは許されず、それを破れば死刑となった。年に1度アブの月9日(8月9日)だけ、金を払うことでそれが許された。そして彼らは神殿の痕跡をわずかに伝える嘆きの壁を前にして泣いたのである。

レコンキスタ・十字軍時代

ヨーロッパ・キリスト教社会では「キリスト殺し」の罪を背負うとされていたユダヤ人はムスリムと共に常に迫害された。彼らは土地所有を禁じられて農業の道を断たれ、ギルドから締め出されて職工の道を閉ざされ、店舗を構える商売や国際商取引の大幅制限などで商業の道を制限されていた。

第1回十字軍は、聖地エルサレムを占領して「ラテン王国」を建設した時(1098年)、同地に残っていたユダヤ人をことごとくシナゴーグ(ユダヤ教会堂)に閉じ込め、それに火をかけて焼き殺した。

十字軍はユダヤ人迫害を伴っていた。歴史の教科書はイスラムとキリスト教徒の戦いであるかのように記述するが、実際には全ての異教徒が迫害されていた。そして聖地エルサレムには当然ユダヤ人が多数居住していたのだ。

1200年頃にイギリスで描かれ14世紀にスペインで写された写本挿絵。上段はエルサレムのイエスと神殿の破壊、中段は主の敵によって斬首されるユダヤ人、下段はエルサレムを血の海にして復讐を遂げる十字軍。

ダマスカスの年代記作者イブン・アル=カラーニシ(Ibn al-Qalanisi、1070年-1160年)によれば、ユダヤ人の守備隊や市民はシナゴーグに逃げたが、フランク(西洋人)が建物ごと火を放ち、中の全員を焼き殺したという。ある目撃者は、十字軍は燃え上がるシナゴーグを取り囲みながら「キリストよそなたをたたえる、そなたは我が光、我が導き、我が愛」と歌を歌ったという。

スペインのユダヤ人迫害

イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺 (1066年)が起こり、多数のベルベル・ユダヤ人が殺された。

ヨーロッパ史最初のユダヤ人虐殺であると言われる。スペインがイスラム支配だったころは比較的宗教に寛容だった。レコンキスタ完了後のユダヤ人居住地域は最初スペインに多く集まっていた。

イギリスのユダヤ人迫害

イギリスにおける顕著なユダヤ人迫害の例は1089年まで遡る

ユダヤ人らは、市の防御施設の一つヨーク城のクリフォーズ・タワー内を聖地とみなした。城を急襲する準備をする間、群衆は罠にかけたユダヤ人たちを数日間包囲した。ユダヤ人自身か迫害者の方か定かでないが、火が放たれ、150人のユダヤ人が死んだ。

ドイツ・フランスのユダヤ人迫害

第一回十字軍が誕生すると、ライン川流域地域(ラインラント)でユダヤ人迫害が発生する。ドイツの十字軍参加者は装備・資金ともに不十分だった。そこで、当方へ赴く前に逆方向のライン川沿いに向かい、豊かなユダヤ人コミュニティを次々と襲い略奪と殺戮を重ね、異教徒征伐の名目で物資調達を行った。

シュパイエル(1096年5月3日)
ヴォルムス(1096年5月18日と25日)
マインツ(1096年5月28日)
ケルン(1096年7月8日)
ノイス(1096年7月14日、ジュッセルドルフに隣接した町)

即刻洗礼を受けてキリスト教へ改宗しないユダヤ人は、女、子供の見さかいなく虐殺されたり、焼かれたりした。ユダヤ人たちはドイツ皇帝や司教の保護の名のもとに抵抗を試みたが、多勢に無勢でなすすべもなく、多くのユダヤ人は自分の家に火を放ち、財産もろとも焼身自殺をしたのだ。

ユダヤ人を虐殺し、彼らのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)やゲットーを破壊することは、キリスト教徒の正義の証しとみなされ日常茶飯事となった。

ポルトガルのユダヤ人大量虐殺

1506年のリスボンポグロムの様子

ペストの流行とユダヤ人迫害

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