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palezioさん

ユダヤ人に乗っ取られた国・パレスチナ・現在のイスラエル

ユダヤ人の入植地域が拡大していった

19世紀末のパレスチナ

絵画のようだが、着色されて作られたカラー写真だ。
これはガリレ湖畔のティベリアという町。

聖書にも登場する場所だ。このころのパレスチナはまだ東洋の風景だった。当時のパレスチナにはまだイスラエルはない。典型的なアラブの町作りだった。だが、やがて、この土地はユダヤ人によって国ごと乗っ取られることになる。

19世紀末パレスチナの住民は50万人、大多数はイスラム教徒だった。その中にユダヤ人、キリスト教徒、アルメニア人などが共生していた。

かつてこの地を統治していたオスマントルコは、宗教に対して寛容であった。あらゆる宗教が認められ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が集まるエルサレムの地には、様々な姿の人達が暮らしていた。

三つの宗教の聖地がたがいに100mしか離れていないエルサレム。イスラム教徒の大モスクはキリストの墓のそばにある、その近くには嘆きの壁がありユダヤ教徒が祈りを唱える。

ユダヤ教徒はエルサレムの人口の半分を占めていたが、国全体では5%以下だった。キリスト教徒は10%,イスラム教徒が85%以上を占めた。

もともとのユダヤ人口は、無視できるほど少なかった。だが、パレスチナ人は彼らに追い出され、やがてテロリストとまで呼ばれることになる。

このころのパレスチナ市民は、オスマントルコのスルタンの臣民だった。
オスマン帝国に国境はない。行政区画があるだけだ。オスマントルコの広大な領地の中で、パレスチナはわずか27000平方キロメートルを占めたに過ぎなかった。

19世紀末の二つの帝国:トルコとロシア

彼のオスマントルコ帝国は病んでいた。国力は弱体化し、属州は独立を求めていた。

はるかかなた、ロシアでも帝政末期の症状が現れていた。

サンクトペテルブルクで1881年、アレクサンドル二世が暗殺されると、ニコライが最後のツァーリ(皇帝)となる。

弱体化していたロシア帝国は、ユダヤ人がロシア国民の全ての不幸の元凶であると宣伝した。これはある観点からは正しく、しかし、ある観点からは単に感情的なものだった。

帝政ロシアにおけるポグロム

1880年にはユダヤ人の数は500万人だった。この頃のポグロムは、帝国による煽動もみられたものの、住民主導で行われた傾向がある。

1世代の間に500万人のうちの数万人が虐殺された。これを多いと考えるか、少ないと考えるか、、

ポグロムを逃れるため、10万人がアメリカに渡り、残った者は革命に参加した。ロシア革命は、しばしば共産主義革命とされるが、ユダヤ人の民族解放運動という意味合いもあった。

ユダヤ人問題は、米国移住、ロシア革命、シオニズムという三つの運動を誘起した

後の米ソの冷戦を考えるとき、資本主義と共産主義という構図をイメージさせられてしまうことも多い。だが、その単著を切り取ってみれば、その双方がユダヤ人の民族解放運動によって生じていることが分かる。

何人かのロシアのロマン主義的なユダヤ人の若者達が、シオニズムを発明した。彼らはイスラエルに帰還しようと主張した。

ユダヤ人によるパレスチナへの植民

19世紀末、パレスチナのユダヤ人植民者の数は4500人だった。彼らは土地を耕し、肉体も精神も健康な新たなユダヤ人を作ろうとした。彼らは最初のユダヤ人民族主義者だった。彼らは「シオンの恋人」と呼ばれた。

19世紀末のパレスチナにいたアラブ人の農民、彼らは最初のユダヤ人植民者がやってきたとき、何も疑わなかった。

彼らは数世紀にわたって、封建制度に従って、スルタン(皇帝)の臣民として暮らしていた。

土地は、有力者やスルタン、あるいは豪族のものだった。ベドウィンと農民はそもそも何も所有していなかった。土地で生計をたて、村は彼らの家であった。

しかし、これら全てが変わることになる。

パレスチナへのユダヤ人勢力の侵入

ハンガリーのブダペストに生まれ、ウィーンに育った記者である。ドレフュス事件(フランスで起きたユダヤ人軍人の冤罪事件)の後、彼はこのように書いている。

「啓蒙のフランスさえも、ユダヤ人の死を望むならば、私たちは自分たちの土地を持たねばならない。私たちが主人になれる国家が必要だ。」

彼らはフランスで起きた冤罪事件をも、イスラエル侵略の口実として用いようとしていた。彼は1987年スイスで、最初のシオニスト会議の議長を務めた男だ。

彼は、効果的な政治機構の構造をつくった。ユダヤ人の国家の建設をするのに彼が費やしたのはきっかり50年だけである。

シオニストは今や世界に新聞や各国語の銀行をもっていた。そして、パレスチナの土地を購入するという重要任務を持つ世界的組織を所有した。

ユダヤ国家基金は値切りもせず、現金で払った。
もともとパレスチナに居たユダヤ人とは似ていない、彼らの考え方は変わっていた。

しかし、シオニストらは、薦められる土地が肥沃だろうが石だらけだろうが関係なく、全て買い取る。契約には、ユダヤ人の所有地になった土地は、ユダヤ人だけによって耕作されねばならないと規定されていた。

特別条項に、土地は住民のいない状態で引き渡されなければならないとの付記があった。

このような条件で売ることを拒否した者もいた。しかし、それ以外の者は快諾した。

このような手法は、アメリカの植民地でも用いられていた。土地を所有するという習慣のない土地に貨幣による買収という手段を行使し、いとも簡単に土地を奪ったのである。

共同生活を開始したユダヤ人

1909年帝政ロシアの迫害を逃れた若いユダヤ人男女の一群がパレスチナに渡り、最初の共同村デガニアをガリラヤ湖南岸に設立したのがキブツの始まりである。

伝統的な日干し煉瓦の建物が壊され、代わりにロシア的な木造建築が建てられた。

キブツはイスラエル式の共同社会体制だ。コルホーズ、人民公社など、他の国にも共同社会的な事業形態はあるが、イスラエルでキブツが果たしたほどの重要な役割を持った自発的な集産主義的共同体は、他にはない。

社会主義とシオニズムが実際的な労働シオニズムの形で結合したキブツは、イスラエル独特の社会実験であり、歴史上最大の共同体運動のひとつである。キブツは独立した農業経営がまだ現実的ではない時期に設立された。

イスラエルの社会体制は、共産主義の考え方を用いていた。もともと、ユダヤ人のマルクスが提唱し、マルクス自身が述べているように、共産主義という発想が、ユダヤ的な考え方によるものである。

キブツで育った世代は、ユダヤ人同士で全てを共有することを学んだ。彼らはまた、土地のないユダヤ人にとって今後人の住まないこの土地が彼らの家であると教えられた。

しかし、パレスチナには他にも子供が居た。1910年、ユダヤ人は人口の8%を占めるに過ぎなかったのだ。

初代イスラエル首相が歴史の舞台に登場していた

ダヴィド・グリーンはポーランドから到着した。この若者は、パレスチナのユダヤ労働党の新聞の最初の記事を書いた。彼は、ダヴィド・ベン・グリオンというユダヤ名を名乗り、活動家として働き始めた。

40年後、彼はイスラエル国家最初の政府の首相を務めることになる。

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