1. まとめトップ

ソ連の行った計画的飢餓「ホロドモール」が残酷すぎる

ホロドモールとは、ウクライナ社会主義ソビエト共和国をはじめ、カザフスタン共和国および現ロシア連邦のクバーニ、ヴォルガ川沿岸地域、南ウラル、北シベリアなど、ウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉とされる事件のことである。(1932-1933)

更新日: 2016年11月05日

palezioさん

  • このまとめをはてなブックマークに追加
118 お気に入り 556671 view
お気に入り追加

毎回思うのはホロコーストばかり取り上げられてホロドモールが一向に知れ渡らないことですね。ウクライナ好きとしてはそれが許せんがな

ホロドモール・・・・人工的飢餓とは。

ウクライナにおける民族対立の一つは、ウクライナ人とユダヤ人の対立だ。その歴史の深い闇の一つがソ連による計画的飢餓「ホロドモール」である。

計画的飢餓「ホロドモール」

1932年から1933年にかけて、当時ソビエトだったウクライナにおいて、大規模な飢饉が発生しました。この大飢饉が当時のソ連の計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていたのです。2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定しました。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしています。

ホロドモールはナチスによるユダヤ人虐殺よりはるかに大規模な、規模の大虐殺である。

白人によるインディアン虐殺、黒人虐殺、インド人虐殺に次ぐ規模な虐殺であったといわれています。

餓死があたりまえの社会

飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気を払うことなく通り過ぎるようになった人々。(1933年)

人口の大幅な減少

地図上の赤い地域では25%の人口が失われ、オレンジ色の地域でも20%以上の人口が失われた。実に人口の5人に一人以上が餓死したことになります。

冬のオリンピックが開催されているソチもまた、ホロドモールの舞台にありました。

ホロドモールを歴史上の事実として認めないロシアがこの地で平和の祭典を開くというのはいかにも皮肉としか言いようがない。

ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段でした。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになりました。

なぜこれが「計画失敗」や「横暴」ではなく「計画的」と言われるのか。それは、実はこの地域を故意に飢餓に陥らせる動機があったと考えられているからだ。

事件から80年が経とうとしている。当時の犠牲者は今も追悼される。

迫害されたウクライナ人

1928年から1932年にかけ、ウクライナの農民が入れられたのは、コルホーズではなく巨大な監獄のようなものでした。村にいながら軍隊に包囲され、飢えるままにされたのです。たとえ村から逃げ出せても都市に入ることはできませんでした。都市も軍隊に包囲されていたのです。

出典ソビエト人民代議員 アファナシェフ:テレビインタビュー

飢饉は、それまでロシアが経験したことがないほど厳しいものでした。およそ一年半の間に500万人が飢えて死に、人々の一部は、死んだ家族の肉を食べてかろうじて生き延びました。

ホロドモールにおける食人については、写真が残されており、グーグル画像検索などでも見つけることができる。

人工的な飢饉?

ウクライナは、16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展しています。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達していた場所でもありました。
人口的な飢饉、すなわち、故意で飢饉が起こされたと言われているのは何故でしょうか?

ユダヤ人によって引き起こされた人工飢饉という側面

ロシア帝政末期、迫害の対象とされたユダヤ人は、やがてロシア革命を通じてソビエト政権の中枢の大部分を占めていました。彼らにとってウクライナの人工飢饉は報復の意味合いがあったのではないかと言われています。逆に、ホロドモールはウクライナ人やポーランド人の強い反ユダヤ感情を産み出すことになりました。1941にポーランドのLvovで発生したポグロムでは実に60000人のユダヤ人が、ウクライナ人市民の手によって殺害されることになったのです。

コサック撲滅政策という側面

当時のソビエトは、コサックを迫害していました。コサックは、もともとウクライナ人の農奴から発生した人々の集団でした。当時のウクライナではユダヤ系の資産家が地主となり、ウクライナ人の農奴が耕すという状態が続いていたため、ユダヤ人とウクライナ人の顕著な対立がありました。

国内パスポート制度

1932年12月27日、国内パスポート制が導入され、農民達は農奴さながらに村や集団農場に縛り付けられたのです。ウクライナの国境は封鎖され、自由な出入りは許されなくなりました。

遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死しており、赤ん坊を食べた事さえもあった。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。

それでも認めなかったソ連

ソ連政府が飢餓の事実を認める事はウクライナ農民に譲歩することを意味したが、5ヵ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたソ連としては飢饉を認めるわけにはいかなかった。

ソ連政府が一連の飢餓の事実を認めるのは、1980年代まで待たなければならなかった。

1 2