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【黒歴史】GLAYの暗黒時代まとめ

上京後のGLAYの暗黒時代――。

更新日: 2015年09月26日

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3mtm1さん

思い出したくない

あの時のことは本当に思い出したくない。思い出すだけで叫びそうになる。狂ってたね。

あの頃は、仕事とバンドで手いっぱいで。

彼女とかいたかもしれないけど、生活に追われてまともなデートなんてする暇がなかった。

たぶん、生活のほうが“その子のことが好き”っていうよりも勝ってたよ。生きてくってことのほうがね。

出典ultra veat 1996年 vol.3 TAKUROインタビュー

入社3カ月で辞職

右も左もわからない初めての東京。

地図を頼りにたどり着いた印刷会社の寮に案内されたTAKUROは、いっそう困惑した。

4畳半に2人。くすんだ色の壁。狭いベッド。

整頓はされていたが、これ以上はどうにもならないという諦めにも似た雰囲気がその部屋全体を支配していた。

朝の9時から夕方6時までの就業時間は、必ず残業で夜の9時や11時になる。

仕事を終えると、もう体はクタクタだった。

食事をして入浴するとすぐに眠気が襲ってくる。毎日がそのくり返しだった。

「俺、もう辞めるわ。このままここにいたら、仕事に流されて時間ばかり過ぎていく」

3ヵ月後、TAKUROはうんざりした気分でTERUに告げた。

「うん、俺もそのほとぼりが冷めたら辞めるから」TERUも同じ気持ちだった。

〈とにかく、バンドを止めちゃダメだ。どんな形でもいいから続けるんだ〉

TAKUROは荒んでいく自分の気持ちを奮い立たせるように咳いた。

出典「GLAY Story 永遠の1/4」

初ライブの客はたった2人

GLAYの東京初ライブは、客がたったの2人だった。

しかも、場所は東京ではなく、正確には埼玉県。浦和市の『ポテトハウス』というライブハウスだった。

友だちも知り合いもほとんどいない、東京での最初のライブだから、仕方がないといえばその通りだ。

問題は、そういう状況がその後もずっと続いたということだ。

出典TAKURO著 「胸懐」

客がゼロ

2人入ったのはまだいい方で、客がゼロというライブもあった。

1992年の正月のことだから、上京して2年目に入ってもまだそういう状態の中でもがいていた。

ステージに立って客席を見回したら目の前に誰もいない時の気分を言葉にするのは難しい。

客が1人もいなくてもステージに上がりスポットライトを浴びてしまっているわけだし、PAの人もスタンバイしているから、演奏しないわけにはいかない。

こんなもん、だだっ広いスタジオ借りて練習してると思えばいいんだ。

心の中で虚勢を張り、平静を装って演奏を始めるのだが、胸の奥から酸っぱいモノがこみ上げてきて吐きそうになる。

テッコの声が、がらんとしたホールに空しく響く。

あいつは僕の何倍も辛かっただろうなと思う。少なくともギターは慄えることを心配する必要はないのだから。

でも、あの時は無我夢中で、そんなことを思いやる余裕すらなかった。

出典TAKURO著 「胸懐」

暗黒時代のピーク

TERUは知り合いの建設会社かなんかでアルバイトしてて、HISASHIはゲーセンやったりコンビニやったり。

俺は工事現場の雑用みたいなのやってたり。その後にレンタルビデオ屋ちょっとやったり。

そのレンタルビデオ屋時代が俺とHISASHIの暗黒時代のピークだったんだよね。

あの時のことは本当に思い出したくない。話すのもヤダよ。

出典ultra veat 1996年 vol.3 TAKUROインタビュー

HISASHIは朝の6時、俺は夜中の3時に仕事が終わった。

で、俺クルマ持ってたから、夜中の3時にバイトが終わると1回家に帰って少し休んでからHISASHIのバイト先に遊びにいってた。

で、4時くらいに着いて、コンビニで漫画とビールを買って読みながら飲んでて、6時になったら「帰るか」って言って、HISASHIの家に帰ってちょっと話して寝るでしょ?

それで、夕方5時くらいに起きるでしょ?

「じゃあ俺、今日もバイトだから帰るわ」って帰って、またバイトして、また3時になったらHISASHIんとこ行って、飲んで、話して寝て……の繰り返し。

前に進むことしか自分を奮い立たせるものがなかったのに、何一つ生産的なことができずに停滞してて、同じ場所をグルグル回ってた。

バンドはうまくいかない、友達と彼女ともうまくいかない。

生活に追われまくってて。暮らしが何もかもを追い越しちゃう。2人とも煮詰まってたよ。

出典ultra veat 1996年 vol.3 TAKUROインタビュー

大海の真ん中を漂流

いくら東京では誰にも知られていなかったとはいえ、函館でやっていたのと音楽が変わったわけではない。

なのに、あうん堂のホールを黄色い歓声で埋め、観客が興奮して床を踏み抜いてしまうんじゃないかと親父さんを心配させた僕たちの音楽が、どんなに頑張っても東京というお化けみたいな都市の心には響かなかった。

人の心に、染みこんでいってくれなかった。

水をもたずに、大海の真ん中を漂流していたようなものだ。

まさに人の海のような都会にいながら、僕らはその一滴も飲むことができなかった。

街ゆく人も僕らにとっては海の水と同じ、潤すどころか、喉を焼き、渇きを増すものでしかなかった。

出典TAKURO著 「胸懐」

どこまでも堕ちていく日々

他のバンド目当てか、それともなにかの間違いで、客席がまばらに埋まっているときだって似たようなものだった。

ステージに立ち、ギターを弾いていても、顔が上げられなかった。

ミュージシャンは、客席の空気を吸って生きているようなものだ。

客が僕らの音楽を聴いて、ちっとも喜んでいないことは痛いほど伝わってくる。

つまらないのか、下手くそだと思っているのか、音楽をぶつけても、ぶつけても、返ってくるのは冷ややかな反応ばかり。

そうなると、とても客席を見ることができなかった。

冷たい視線をあびるのが怖くて、視線は下がり、顔はうつむく。

そんなことではいけないと、勇気を奮って前を見るのだが、今度はいつの間にか後ずさってしまう。

首を垂れ、後ずさりするようなバンドの音楽を、誰が好きになってくれるだろう。

ましてや、そういう気分が、奏でる音楽に影響をあたえないわけがない。

そんなことわかりきっていても、どうにも仕様がなかった。

客に受けない、僕らは下を向く、客はさらにシラケ、僕らはより深く首を垂れる。

つまりはそういう悪循環で、GLAYはどこまでも墜ちていった。

出典TAKURO著「胸懐」

打ち砕かれた自信

東京に来て間もない頃、一度だけ始発電車に乗って、テッコと函館に帰ったことがある。

ウォークマンがひとつしかなかったから、左右のイヤフォンをひとつずつ分け合って音楽を聴きながら……。

会話はあまりなかった。ただ、窓から空を眺めていた。

なんのために帰ったのかは、よく憶えていない。函館を離れてまだ半年も経っていなかった。

それでも無性に帰りたくなったのは、自分を見失いそうになっていたからだと思う。

東京でのライブ活動は、悲惨だった。

ちっぽけな函館のライブハウスを満員にしていたあの頃が、まるで幻のように思えた。

それが現実にあったことかどうか、無意識のうちに函館に戻って確かめたかったのかもしれない。

それくらい、自信を失いかけていた。

函館を出るときは、東京で成功する保証は何もなかったけれど、自分たちの音楽に対する自信と楽観があった。

けれど、現実はいつも想像を裏切る。甘いとか、甘くないとかいっていられるようなレベルではなかった。

ライブをすればするほど、自信は粉々にうち砕かれた。

出典TAKURO著「胸懐」

相次ぐドラムの脱退

「悪いけど、俺がやりたいのはこういう音楽じゃないんだ」

函館から帰ってすぐにドラムが脱退した。

HISASHIがバイト先から連れて来た2人目のドラマーも、2、3度ライブをこなすとすぐに来なくなった。

TAKUROは焦っていた。

ドラムなんか待ってられない。デモテープを作ろう。都内で出られそうなライブハウスは片っ端からオーディションを受けるんだ。

「シンゴは確かドラムもできたよな。じゃ、HISASHIはベースをやってくれよ」

再び4人になったGLAYとともに、TAKUROは精力的に動いた。

動いていないと、東京に出てきた意味も音楽をやってる意味もすべて消えてしまいそうだった。

しかし、何ヵ月経って4人で臨んだライブは、毎回酷評しか返ってこなかった。

出典「GLAY Story 永遠の1/4」

イカ天

『イカ天』――「いかすバンド天国」。

かってのバンドブームの火付け役とも言うべきTBS系の番組で、何組ものアマチュアバンドが出演し、自慢のオリジナル曲を披露する。

そして、GLAYも「明日のスターを目指すアマチュアバンド」として出演していた。GLAY上京の年、90年の11月の放送分である。

ナレーションとともに当時のメンバー、シンゴを含む5人が登場。司会者の三宅裕司がGLAYとのやり取りを始める。

「『某コンテストでメチャクチャ言われて、みんな弱った』って何言われたの?」

その質問に対して正直に答えるシンゴ。「コンテストに出ないほうがいいとか……」

そんな会話の後にVTRが流れる。

曲は、『無限のdejya vu』。しかし、VTRは途中で終わり、最後まで放送させてもらえなかった。

しかも、審査員の寸評も、

「けっこう毒がありそうだと思ったんだけど……なんか、毒も何もなくてガッカリしちゃった」

「ずっとAメロを聴いてるような感じで、長い1番だなっていう感じなんですよ」

などという酷評だった。

出典GLAY完全白書

ふがいないよ

たった一度だけだが、もう音楽をやめてしまおうという気になったこともある。

2年間も東京で頑張ってきたのに、ちっとも成果が見えない。

おまけに、恋人にも逃げられてしまった。なにもかも、投げ出したくなった。

夜中にテッコに電話をした。

「もう諦めないか。俺には才能がないんだ。彼女にもフラれるしさ。この先どれだけ続けても同じことだよ。GLAYなんかやめて、函館へ帰ろう」

黙って聞いていたテッコは、2年前に僕があいつに投げたのと同じ言葉を、そのまんま返してよこした。

「ふがいないよ」

僕はどきりとした。

「なにいってんだ!僕らは、まだ何ひとつやってないじゃないか。やめてもいいけど、それは何か結果を出してからのことだよ」

頭から水をかけられたような気がした。同時に、元気も湧いてきた。

口にこそ出さなかったけれど、テッコはつまりこういうことをいっていたのだから。

もっとどんどん曲を作れ、詞を書け。

お前の曲が世間に認められるまで、俺はいくらでも唄ってやるから。諦めないから――。

出典TAKURO著「胸懐」

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