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宮沢賢治『雨ニモマケズ』をわかりやすく解説する

童話作家の宮沢賢治の代表作に『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などが上げられますが、彼を最も有名にしているのは詩「雨ニモマケズ」でしょう。日本人なら誰でも一度は読んだことがあるこの作品を詳しく解説します。

更新日: 2014年08月06日

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aoibotaruさん

雨ニモマケズは宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモです。賢治が結核で亡くなる二年前に、病床で手帳に書き付けたこの三〇〇字ほどのメモが始まりでした。

賢治がこれを書いたのは昭和6年11月3日。この年の二月に賢治は東北砕石工場の技師となり、宣伝販売を任され、夢を抱いて上京しました。しかし賢治は急に発熱をして倒れてしまいます。その症状は思いの外深刻なもので、9月3日に遺書を書いたほどでした。

この作品は1931年秋に使用していた黒い手帳に記されていたものです。

手帳は全体として自省とその当時の賢治の願望が綴られた内容となっています。

賢治の生前には手帳自体の存在が家族にすら知られておらず、本作も未発表のままでした。

この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌年に新宿で開催された宮沢賢治友の会の席上。

この会合には、招かれた賢治の弟が賢治の遺品である大きな革トランクを持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し他の参会者にも回覧された。

没後1年を記念した1934年9月21日付の『岩手日報』夕刊に「遺作(最後のノートから)」と題して掲載。続いて1936年7月、日本少国民文庫の「人類の進歩につくした人々」に収録されました。

手帳は、2007年7月-10月に賢治の描いた絵画などとともに国内各所で公開された。

2011年4月11日、ワシントンのナショナル大聖堂において、東日本大震災の犠牲者を悼むための追悼式が開かれ、サミュエル・ロイドⅢ世大聖堂長により本作が英語で朗読されています。

解釈の違い

最初の発表時から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされている箇所は、実は手帳の原文では「ヒドリノ…」と書かれています。

これは歴代の全集編集者が誤記とみなして校訂したものですが、花巻農学校での賢治の教え子の一人が「農家にとって日照は喜ぶべきものであり、『ヒドリ』は日雇い仕事の『日取り』を意味するもので『日雇い仕事をせざるを得ないような厳しい暮らしのとき』と原文通りに読むべきである」との説を提起しました。

これに対して、詩人の入沢康夫が以下のような校訂の根拠を提示。

・他の詩で「ひど」と書いて消し、「ひでり」に直しているものがある。賢治には「デ」を「ド」に誤記する書き癖があった。

・次の行「サムサノナツハオロオロアルキ」と対照にならず、本作の他の箇所でも多用されている対照の手法からここだけはずれてしまう。

・確かに農家にとって日照は重要であるが、過剰な日照による干ばつへのおそれは賢治も複数の作品で取り上げている。

太平洋戦争終戦直後の1947年の文部省の国定教科書に当作品が掲載されています。

ですが掲載される前に一悶着あります。

「日本の食糧事情から贅沢と思われる」という理由からGHQの統制下にあった民間情報教育局の係官は一度掲載を却下していました。

しかしその後、「玄米四合」を「玄米三合」に変更することを条件として許可したとされています。

※一日四合とは、米が主食である日本の食文化において、成人ひとりが一日に食べる標準の米の量でした。

「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ」

このように労をいとわず手助けをし、

「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」

とあるのは『法華経』の常不軽菩薩の精神を表していると指摘されています。

なお詩句の最後の箇所は手帳の見開き右のページで終わっており、同じ見開きの左のページに

「南無無辺行菩薩~…」という題目が記されています。中央の「南無妙法蓮華経」の行は、他の行よりやや字粒が大きくなっています。

賢治は生涯、法華経の行者でした。24歳のときに国柱会に入信して、以来、亡くなるまで法華経を説きます。

遺言にも『国訳妙法蓮華経』を千部印刷し、周りに頒布するよう書いています。

経の仏意に触れて無上の道に導かれるようにするのが、自分の生涯の仕事だと。

「雨ニモマケズ」は法華経の祈りを描いたものだといわれます。

最近、この詩にはモデルがいたと考えられています。内村鑑三の最期を看取った唯一の弟子、斎藤宗次郎(写真)がその人です。

宗次郎は花巻出身。地元の小学校の教師でしたが、キリスト教徒であることを理由に学校を追われます。

退職後は新聞販売を兼ねる書店を経営し、キリスト教の伝道を志しました。新聞配達のために、雨の日も風の日も大風呂敷を背負って走りました。

配達や集金の際には病人を見舞い、子供達には菓子を分け、貧困の者には小銭を与えました。出会った人々の悩みに耳を傾け、土地の人に慕われました。

宮沢賢治の父、政次郎が宗次郎と懇意な間柄でした。賢治も、宗次郎のことを尊敬していました。若い頃の賢治はよく教会に行っていたと弟の清六はいいます。

賢治とキリスト教の関わりには深いものがあるのです。

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