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Supreme/Jean-Michel Basquiat カプセルコレクション

80年代にニューヨークのカルチャー・シーンを駆け抜けたグラフィティアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキア。そのバスキアとシュプリームによるエクスクルーシブなカプセルコレクションがリリースされることになった。"ニューヨーク"という共通のバックボーンを持つ両者のマインドが時代を超えて共鳴する。

更新日: 2013年10月21日

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takasi883さん

Supremeは、2013年秋冬として、ポップアートのアーティストとして有名なJean-Michel Basquiat(ジャン=ミシェル・バスキア)をフィーチャーしたコレクションを発表した。

アイテム一覧

バスキアにとって憧れの人物、ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン“モハメド・アリ”。彼をモチーフにした作品をバックにプリントしたM-65ジャケットはライナーとフードが取り外し可能。

アンディ・ウォーホールと知り合い、共同制作するようになった1983年。ちょうどこの頃に描き下ろされた作品。

同じく、1983年に書き下ろされた作品“Untitled”をプリントしたシャツ。

ニューヨーク・ハーレムの一角にスタジオを構え、黒人コミュニティーを記録し続けた写真家、ジェームス・ヴァンデア・ジー。彼が撮影したバスキアのポートレイトをプリントしたスウエットフーディ。

(左から)スウエットフーディと同じ、ジェームス・ヴァンデア・ジーが撮影したポートレイトをプリントしたTシャツ。グレンオブライアンコレクション“Works On Paper”をプリントしたTシャツ。77年~80年前半、バスキアがグラフィティ・アーティストのアリ・ティアズと共に作った架空のアーティスト、“SAMO(セイモ)”の書き下ろし作品をプリントしたシャツ。作品“Replicas”の一部を抜粋したロングスリーブTシャツ。

バスキアとは?

落書きが彼の人生を変えた

27年の人生を激しく生きた「ジャン=ミシェル・バスキア」。彼の作品には一貫したテーマがある。それは「人種差別」である。そのことに彼自身が気付いたのは幼少期のころ。
8歳のとき、路上でボール遊びをしていたところ、自動車事故に遭ってしまう。それは腕を骨折し、脾臓を摘出するという大きな事故だった。幸い一命を取り留めたバスキアに母親がプレゼントしたのは、グレイ著『解剖学』という本だった。一般に画家を志す人は人体構造を学ばなければならない。その知識を彼は幼くして得ることになる。またそれは「どうして本の中に出てくる人たちは、みんな肌が白いのだろう」という素朴な疑問を彼に抱かせた。そして結論にたどり着く。「肌の色は違っても、みんな中身はいっしょなんだ」と。
ハイスクールでは、創造性が豊かゆえに問題児でもあったという。その頃からバスキアは友人ともに憂さ晴らしの手段として、地下鉄やマンハッタンの建物にスプレーで落書きをはじめた。その落書きはウイットに富んだ哲学的な詩で構成され、署名には架空のいかさま宗教集団プロジェクトのキャラクター名であるSAMO(same old shit)と記し、落書きを続けた。

卒業式当日、バスキアは何を考えたかシェーヴィング・クリームを満載した箱を用意して、壇上で演説する校長の頭にぶちまける。そのときすでに彼の心の中にはチャーリー・パーカーやジミー・ヘンドリックスのように「スターとなって、燃え尽きる人生への憧れ」がうまれていた。

ニューヨークのクラブにて

家を出たバスキアは友人のアパートを転々とする。ニューヨークのクラブに出入りするようになり、アーティストたちとの交流を深めてゆく。そんな日々の生活費を稼ぐために、彼は手書きのポストカードやTシャツを路上で売りはじめる。ある日、ソーホーのレストランでアンディ・ウォーホルとヘンリー・ゲルツァーラーに接近し、ウォーホルにポストカードを売ることに成功したものの、ゲルツァーラーには「若過ぎる」と追い払われてしまう。再び、バスキアはグラフィッティ・アートと抽象表現主義を合体した作風のドローイングなどを続け、MoMAの前などで作品を売って日々を過ごすことになる。

1979年、バスキアはキース・へリングと出会う。SAMOの正体を知ったヘリングはクラブ57でSAMOへのオマージュを捧げたという。その後も意欲的にいわゆる『業界人』たちと出会い、有名になるためのきっかけを求め続けた。その結果、翌年、彼の作品は「タイムズ・スクエア・ショー」ではじめて展示される。それは常連だったマッド・クラブで出会ったアーティスト兼映画監督のディエゴ・コルテスが、 バスキアの作品を気に入り、アートディーラーやソーホーのレストランで追い払われたゲルツァーラーに正式に紹介してくれたからである。ゲルツァーラーはバスキアを好意的に迎え、彼の作品のコレクターとなった。

「タイムズ・スクエア・ショー」はアート界に熱狂的に受け入れられ、バスキアは「アート・イン・アメリカ」誌で論じられるアーティストになる。自分の才能を信じた彼は参加していたバンドを脱退後、一度も公開されることのなかった映画「ニューヨーク・ビート」の主演の座を掴む。この出演料をきっかけに、やっと不自由なく画材を買える生活がはじまった。

1981年、ヨーロッパを旅行し、イタリアのモデナで初の個展を開催。翌年にはアメリカでも個展を開き、アーティスト、コレクター、批評家の誰もがバスキアを絶賛した。6月には西ドイツで行われる国際的展覧会「ドクメンタ7」へ最年少で出品。彼のまぶしいばかりの成功の日々がはじまる。それまでアートの世界に存在しなかった黒人のスターが誕生したのだ。

成功、そして終焉。

そして1982年、『解剖学』と題した初の版画集がアニナ・ノセイ・ギャラリーから出版される。しかしその秋、アニナ・ノセイの忠告を聞かずに開いた個展は、凄まじく煩雑で原始的なものだったという。展示はバスキア本人が手がけたものだが、あえて原始的に見せたのは、批評家からの「オリジナリティが失われた」という言葉に対する反論ともいわれている。アニナ・ノセイとの付き合いはこれで終わったが、作品自体は彼自身最高の出来と言うだけあって、一部の批評家には非常に好意的に受け入れられた。さらなる高名を手にしたバスキアは個展や展覧会で称賛を受け、作品が完売になるなど、著名人への道を突き進む。
『インタヴュー』誌の編集者の紹介でウォーホルとの交流を深めたバスキアは、作品を発表し続け、1984年MoMAの「最近の絵画・彫刻展」に参加。同年9月には、ウォーホルとクレメンテとの共同制作を展示するなど人気と栄誉を確実なものとした。
しかし、このころからドラッグの量が増え、奇行が目立つようになる。ドラッグ問題は悪意に満ちたゴシップとなり、批評家からは否定的な論評をされるようになった。だがこれは彼が黒人であることの人種差別の表れだった。1988年4月には、ドラッグ中毒の治療のためハワイで長期滞在する。このあと友人には「ドラッグをきっぱりやめた」と宣言するほどに上機嫌だったという。

8月、バスキアはニューヨークのグレイト・ジョーンズ・ストリートのロフトで遺体となって発見される。マンハッタンの検死官は死因を「急性混合薬物中毒」と発表したが、幼少期の頃の交通事故から来る病だったともいわれている。
年号をみれば明らかな通り、バスキアの人生は短い。まるで生き急ぐかのように熱く燃え尽きた。バスキアの作品に漂うのは、情熱ばかりではない。大胆な構図、抜群の色遣いのセンス、強いメッセージの裏に隠された、繊細な彼という人物が、そこから感じられる。

映画【DOWNTOWN81】
27歳で他界したアート界の才人ジャン=ミシェル・バスキアが、無名時代に主演した幻の一作。街をさまよう若き芸術家の姿をスケッチ風にとらえつつ、80年代NYの熱気を伝える。

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