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現代とこんなに違う大正時代[美人は女学校中退、カフェはキャバクラ?]

NHKの人気朝ドラ「ごちそうさん」「花子とアン」で描かれた大正時代(~昭和初期含む)。当時の女性の衣食住を中心におもしろ雑学を集めてみました。

更新日: 2015年10月21日

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saholalalaさん

【更新履歴】
2013/11/12:「明治民法」「嫁姑問題」「鉄道網」トピック追加
2014/04/18:「柳原白蓮」「住宅」トピック追加
2014/05/09:「ラジオ」トピック追加

女学校に進めるのは一部の女子のみ

高等女学校は小学校卒業後の中等教育を担う場

尋常小学校卒業後の12~17歳が基本的な在籍期間となります。

大正4年(1915年):5.0%
大正14年(1925年):14.1%
昭和10年(1935年):16.5%
(出典:オースィキナ・アンナ:高等女学校の日常生活:女学生の楽しみや悩み)



図:http://www.jacar.go.jp/seikatsu-bunka/p03.htmlより

戦前を通して高等学校に進学・在籍した人の割合は同世代人口の1%を越えることはありませんでした。

女性は基本的に上級学校への進学機会が閉ざされていたため、高等学校や大学で学んだのは極めて希なケースとして存在するのみです。

高等女学校からの進学先はその専攻科及び高等科、女子高等師範学校、女子専門学校、一部の私立大学などに限られていました。

大正デモクラシーの中で女子教育や体操教育の必要性が高まり、また和装は高価となるなどの理由から、女学校では洋装が検討されるようになった。
日本で最初に洋装を採用した平安女学院では、礼拝奉仕する修道女的なイメージや、和服の着物襟に近くなじみがあるなどの理由で、セーラー衿のついたワンピースを採用し、大変な人気となった。

出典:http://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/style/change07.html

「美人」は女学校を卒業することができなかった

戦前あるいはそれ以上に昔の話になるが、美人は高学歴になれなかった。美人であるがゆえに、高等女学校を卒業することができなかった。

今とはちがって、当時は縁談が決まれば、そのまま中途退学して嫁入りするものであった。今なら卒業を待ってから結婚となりそうなものだが、即座に中途退学して入籍したのである。

「大正三美人」に挙げられることもある林きむ子。俳優の藤田まことさん(故)は甥っ子だそうです。

なお、その逆の場合はどうだったのであろうか?

学習院女子中・高等部の前身である華族(かぞく)女学校・学習院女学部・女子学習院の時代には、「卒業面(そつぎょうづら)」ということばがあった。

「不細工すぎて、在学中に縁談が来ることはなく、まちがいなく卒業できる顔」をしているという意味である。

「花子とアン」主人公親友のモデルは大正三美人の一人・柳原白蓮

1度目の結婚に破れた後、ドラマのモデルとなった東洋英和女学校に編入。大正天皇のいとこに当たります。超セレブ!
卒業後は大御所歌人・佐佐木信綱に師事。雅号の「白蓮」は佐佐木が名付け親。

菊池寛著「真珠夫人」のモデルと言われており、昼ドラ並みの波乱万丈の人生を送りました。

筑紫の女王とうたわれた柳原白蓮は明治18年柳原伯爵家に生まれ、大正天皇の生母柳原愛子(なるこ)の姪でした。
初婚にやぶれた白蓮が27歳のとき父親ほども違う52歳の伊藤伝右衛門と再婚しました。

大正天皇の従兄弟にあたる高貴な家柄の白蓮と、炭坑夫から一代で財をなした伝右衛門とは不釣合いなことから「金で買われた結婚」と噂されました。

ラジオの放送開始は大正14年

第一声は’アーアー、聞こえますか。(間)JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します’

1932年から1941年11月まで、JOAKのラジオ番組『子供の時間』の一コーナー『コドモの新聞』に出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだった。

父親の権威は絶対

子や娘同士は自由恋愛の末に結婚したいと思っていても、どちらかの父親が気にくわない場合は破談にすることができた。

自由恋愛が法的に制限されていたため、男女の心中事件や駆け落ち騒動が戦後と比較すると多かった。

現行民法(昭和22年改正)との大きな違い

・妻には財産権がない(夫は妻の財産を管理)
・姦通罪の規定(妻の不倫は犯罪、ただし夫の妾は公然の存在)
・家督相続は直系男子が単独で行う

※いずれも原則で例外ありです。

嫁姑問題は永遠のテーマ

いつの時代にも嫁VS姑のバトルってのはあるもんです
現代は嫁も強くなってますが、昔はほとんどが嫁が姑にいじめられるってもんでした

1914年の読売新聞に「身の上相談室」というのが始まると、なんとここに嫁が姑との対立に困っているという投書が殺到したのであります
同じ頃に創刊された「主婦の友」でも、この問題はかなり取り上げられたのでしたが、世論はどっちかというと嫁より姑を贔屓していました

それに異論を唱えたのが与謝野晶子
与謝野晶子は「嫁姑問題は夫にも責任がある」という考えで、この時代には考えられない意見を発表したのでありました

1878年(明治11年)~1942年(昭和17年)
夫・鉄幹とは不倫の関係からスタート

現代のカフェと似て非なる「カフェー」

日本におけるカフェーの始まりは、1911年(明治44年)3月、銀座日吉町に開業したカフェー・プランタンと言われる。

これはパリのCafeをモデルに始まったものであるが、本場のCafeとは異なり女給を置いていた。プランタンなどはインテリ向けの店で一般大衆は入りにくかったと言われる。

カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。ちなみに当時の女給は多くの場合無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった。

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