1. まとめトップ
  2. 雑学

京都人も知らない?京都の意外な歴史まとめ

学校の歴史では習いそうもない?大方の京都人も知らなさそうな意外な京都の歴史をまとめました。

更新日: 2016年08月26日

68 お気に入り 77991 view
お気に入り追加

1.平安京と呼ばれる前の京都の名前ってご存知ですか?

山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら)というそうです。

784年に長岡京遷都が行われましたが、
藤原種継暗殺事件による早良親王配流以後、
桓武天皇の近親者の不幸が相次ぎ、
さらに792年に長岡京で二度の大洪水が。

桓武天皇はこのままこの地で
都の造営を続けるべきか?と悩んでおられた、

和気清麻呂は天皇をこの山上(将軍塚)にお誘いし、
京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言しました。

天皇は、都の鎮護のために、
高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、
鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、
塚に埋めるよう命じられました。
これが、この地を「将軍塚」と呼ぶ由来

792年9月と11月に
桓武天皇は山背国葛野郡宇太村を遊猟にことよせて視察

793年 藤原小黒麻呂らが山背国葛野郡宇太村を、
新しい都の候補地として視察に訪れ、
その6日後には、早くも長岡京の廃都に取りかかった

山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら)は、
現在のJR二条駅北周辺だそうです。

2.平安京が造営される前の京都盆地は川だらけだった?

都が794年に造営される前

3.かなりある?過去に京都に存在した川

900年ごろから1340年ごろ

東京極川(ひがしきょうごくがわ)は,
現在の上御霊神社の前を南下し,
相国寺を経て今出川通で今出川となり,東に流れて寺町に達し,
中川となって再び南下し,二条において東行し鴨川に合流した川

寺町通りは、明治に市電が通る迄は中川と云う川が流れていた

※寺町通りは昔の東京極通り(ひがしきょうごくどおり)

富小路川、東洞院川、烏丸川(子代川)、室町川

※富小路(とみのこうじ)、東洞院(ひがしのとういん)、烏丸(からすま)

西洞院川(にしのとういんがわ)
かつては道の西側に西洞院川と呼ばれる河川が流れていたが
現在は全て暗渠となっている。
1960年代までは小川通と西洞院通の
民家の間を小さな川が流れていた。

(西洞院川は)
市電開通にあたって暗渠化されたもので、
現在は下水溝となっている。

小川(こがわ)
堀川通の堀川紫明交差点の東から元本能寺あたりまで通じる
「小川通」に名を残す、堀川に注いでいた川。

※通りの名前は小川通り(おがわどおり)

堀川(東堀川)
堀川は,賀茂川の1支流であり,
その川床を利用して堀川を造り,これを東堀川と名付けた。

大宮川(おおみやがわ),耳敏川(みみとがわ),西大宮川

※耳敏川(みみとがわ)は大宮川の別名とも

西堀川(現在の紙屋川)
東西両堀川の開削は,京都北部の山岳地帯で伐り出した,
平安京造営に必要な材木の運搬が目的

4.昔は火葬や土葬じゃなかった…風葬って?

風葬(ふうそう)とは、遺体を風にさらし風化を待つ葬制。

千本えんま堂の周辺は、平安時代、風葬の場所だった。
当時は、遺体を平安京の外、洛外に運び出す習慣があり、
洛外に当たるえんま堂周辺には遺体がたくさん置かれていたという。

(西院:さい)
平安京初期、この辺りは風葬の地と定められた

紙屋川(天神川)の河原となり、
河原には遺児が捨てられるようになり、
「西院の河原(さいのかわら)」として有名になった。

5.京都にも昔、竜巻があった?

(平安末期)1180年5月25日 
京の都で竜巻が発生し大きな被害が出たことが
鴨長明の『方丈記』に記されている。

竜巻は現在の京都市上京区松蔭町のあたりで発生し
南南西に向かっておよそ3kmばかりにわたって吹き荒れ、
現在の東本願寺の手前あたりで消滅したと思われる。

1 2 3





ふみふむふむふみさん

ラッコは漢字で書くと海獺。海の獺(カワウソ)だよー。