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アンドレイ・チカチーロの生い立ち【ロシアにて52人虐殺】

アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロは、ウクライナ生まれの連続殺人者。ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔などの呼び名で知られる。1978年から1990年にかけて、おもにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人の女子供を殺害したとして殺人罪を言い渡された。

更新日: 2014年06月14日

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アンドレイ・チカチーロ

アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロ(ロシア語:Андрей Романович Чикати́ло;ラテン文字表記の例:Andrey Romanovich Chikatilo;チカティロ、チカティーロとも書かれる。 1936年10月16日 - 1994年2月14日)は、ウクライナ生まれの連続殺人者。ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔などの呼び名で知られる。1978年から1990年にかけて、おもにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人の女子供を殺害したとして殺人罪を言い渡された。一部の犠牲者は、当時のウクライナ・ソビエト社会主義共和国とウズベク・ソビエト社会主義共和国で殺されている。

当時のソビエト連邦では、「連続殺人は資本主義の弊害によるものであり、この種の犯罪は存在しない」というのが公式の見解であった。チカチーロの犯罪については、民警(ソ連内務省管轄の文民警察組織)内部では連続殺人という認識が無く、組織立った捜査が行われなかった。チカチーロの犯行範囲は事実上ソ連全土に及んだこと、犠牲者が男女を問わなかったことで、同一犯の犯行とは考えられず、いたずらに犠牲者を増やす結果となった。最終的にはKGBの捜査介入が行なわれ、逮捕されるに至った。

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ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔などの呼び名で知られる。1978年から1990年にかけて、おもにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人の女子供を殺害したとして殺人罪を言い渡された。

生い立ち

チカチーロは1936年ウクライナに生まれ、ノボチェルスクで育った。父は第二次大戦中に自ら命乞いをして捕虜になったと噂され、ナチ収容所から解放されたあと、スパイ疑惑をかけられてシベリア送りとなり消息を絶った。ウクライナで大飢饉が起こった際には兄が殺され、その肉が市場で売りに出されたという話もある。

彼の知力は高かったが、生まれつき弱視であり、学校に入ってから黒板の字が読めず苦労した。身体的にも優れておらず、妹によれば「いつも言いがかりをつけられて追い回されていた。野菜畑に隠れたまま、怖くて外に出ることもできなかった」という。そのうえ青年期に入った際、自分の性器が射精こそすれ、めったに勃起しない欠陥を備えていることに気づいた。

性的脆弱を埋めるべく、勉学を通じて己の向上を図ったチカチーロだったが、モスクワ大学への入学に失敗。工業専門学校を経て、電話工をしながらロシア国文学の学位をとり、ノボ・シャティンクスの寄宿学校で文学教師となった。また28歳の時に妻を迎え、回数は少ないながらもどうにか夫婦の営みを果たし、1女1男をもうける。それでも性的コンプレックスが埋まることはなく、不能を恐れて妻と関係しない日々が10年以上も続き、夫婦関係は冷え切っていった。

1973年ごろから欲求不満を持て余したチカチーロは、学校の女子生徒たちへ性的ないたずらを犯すようになる。女子トイレをのぞき、勉強を見るという口実でボディタッチし、寝室へ忍び込んで着換えを観察した。これが問題となって退職を余儀なくされたチカチーロは、ロストフの地方商業専門学校の教師、鉱山技術学校の寄宿舎鑑などに転職していく。地位も収入もガタ落ちとなり、家族から冷たい目で見られ、すべての自信を失ってしまう。だがこういった転職後も、チカチーロは以前と同じように少年少女へセクハラを繰り返し続けた。

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ロストフの殺し屋、赤い切り裂き魔などの呼び名で知られる。1978年から1990年にかけて、おもにロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内で52人の女子供を殺害したとして殺人罪を言い渡された。

淫楽殺人鬼

町のはずれにあばらやを買い求め、そこで安淫売や浮浪者を誘いこんでは欲求不満をはらす日々が1978年ごろまで続いた。
 しかし1978年もうすぐクリスマスという12月22日、仕事を終えた帰り道でレナ・ザコトノーバ(9歳)に声をかけたアンドレイはあのあばらやに彼女を誘いこむことに成功した。
 そこでついに彼はレナをナイフでめった刺しにして念願のサディスティックな願望を満たしてしまったのである。
 一度味わった禁断の果実の甘さにアンドレイは狂喜したと言っていい。
 レナの死体は2日後川に投げ捨てられているところを見つかったが、犯人として逮捕されたのはアンドレイではなく前科者のアレクサンドル・クラフチェンコという男であった。
 哀れなこの男は1984年に殺人犯として処刑されている。
 せっかく間違った犯人が捕まったのに新たな事件を起こして真犯人がいることに気づかせるのはまずいと思ったのか、アンドレイはしばらくの間自重する日々を送る。
 しかしついに素行の悪さから教師を首になり、工場の補給担当者となった1981年、再びアンドレイは凶行に走った。
 犠牲者はラリサ・トカチェンコ。
 深い森の中で彼女を絞殺したアンドレイは死体を切り裂いて内臓を取り出し、射精しながら雄叫びをあげた。
 
 「パルチザンになった気分だった」

 若き日に読んだ小説を思い出し、今こそアンドレイは妄想の夢を叶えていた。


 かくしてソビエト連邦が生んだ最凶の殺人者「ロストフの切り裂き魔」は誕生した。
 この後アンドレイは12年にもわたり52人という大量の女性や子供たちを虐殺することになる。
 犠牲者はほとんど刃物でめった刺しにされており、眼球をくりぬかれたり性器を切り取られていることもたびたびであった。
 それらはたいていの場合その場で食べられるか、自宅に持ち帰った後で調理されていた。

 12年もの間アンドレイが逮捕されなかったのにはわけがある。
 まず当時の共産圏は連続殺人事件は資本主義の退廃的な文化の悪弊であると信じられていた。
 そのためグラスノスチでアンドレイの情報が公開されると結局共産圏も同じじゃないか、という批判にさらされることとなった。
 さらに問題なのは警察が一連の殺人を同一犯のものとは考えていなかったことである。
 非常に硬直した当時の官僚体制では横のつながりが希薄で、出張先で犯行を繰り返すアンドレイを捕捉できなかった。
 まだコンピューターによるデータベース化もされておらず、警察がこの事件を同一犯と判断するのは実に三十人以上が殺されたあとであった。
 さらにアンドレイの体質がまるで悪魔の加護のように彼に幸運をもたらした。
 被害者に付着した精液から犯人をAB型であると鑑定したが、アンドレイはA型であった。
 アンドレイは精液と血液の型が異なるという珍しい体質の持ち主であったのだ。


http://ahouroushi.kimodameshi.com/killer12.html

結婚

妹のタチアーナは、兄のことを心配していた。ソ連では、18~19歳の間に結婚しているのがほとんどであった。チカチーロは27歳になろうとしていた。チカチーロはしばしば、「勉強中だ」と部屋に籠もって自慰に耽っていた。兄が部屋の中で何をしているのかは妹も気が付いていた。タチアーナは、ウクライナ国境沿い、ノヴォシャフチンスクにある自分が働いている美容院で知り合った友人フェーニャ・オドナチェヴァを、兄に紹介した。フェーニャはチカチーロよりも3歳年下であった。最終的にはチカチーロとフェーニャは結婚するに至った。フェーニャは、チカチーロが下戸である所に惹かれた。ロシアでは、夫の酒癖が悪かったり、アルコール中毒である場合が多いという背景があり、フェーニャの母も、夫の酒癖の悪さに悩まされていた。2人が結婚したのは1963年のことである。チカチーロはフェーニャに対し、「結婚するまで、君の体を大事にしておきたい」と語った。チカチーロにとって、性交は既に重荷と化していたのである。だが、性交は正常であった。1965年には娘リュドミラ、1969年には息子ユーリーを儲けた。また、このころにはソ連共産党への入党を果たし、地元党支部で青少年教育やスポーツ関係の委員長を務め、パートタイムで地元紙の記者としてコラムを執筆するなど、ある程度の社会的地位を得る。
妻との性行為では、自分の指を使って彼女の中に射精することに努め、官能的な性交はごくわずかだったと主張している。

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教職

チカチーロは結婚の翌年から、電気技師として働くかたわら、大学進学の夢を捨てられず、また社会的地位の向上を目指して再び勉強を始める。30歳でロストフ大学教養学部の通信教育課程へ入学し、ロシア文学を専攻。5年後に念願の大学卒業を果たした。教職資格を取得したチカチーロは卒業と同時に新しい職場を探し、ノヴォシャフチンスクにて小学校の教師の職を得たのである。だが、この頃、若い女性とのふれあいが、一生の仕事にならないだろうかという考えも抱いていた。

チカチーロは1971年から1981年まで、小学校や職業訓練学校の教師を務めていた。強度の近視であったにも拘らず、眼鏡をかけることを嫌ったチカチーロは、結局30歳の時に自動車免許を取得するまで眼鏡を購入しなかった。教師として最初に赴任した小学校の教室で、授業を行おうともするもまるで身動きが取れなかった。教壇に立っても、極度のあがり性によって子供たちを全く指導できず、担当していた上級生のクラスを学級崩壊に陥らせていたため、教師としては全く不適格であった。共産党員であったチカチーロは校長の厚意もあって副校長待遇として迎え入れられたが、能力不足を露呈したため程なく解任されている。

また、チカチーロはこの小学校や後の職場となる職業訓練学校にて、数度の猥褻事件を起こしている。上級生のクラスの担任を外されてからチカチーロは低学年のクラスのみを指導するようになるも、その後「チカチーロ先生は体を触る」という噂が立つようになり、実際に自分の女生徒の体に触れて猥褻な行為に及んでいた。通勤途中のバスや電車の中で、少女に猥褻な行為をしていたことを同僚に目撃されて校長に報告がなされていた。のちに校長から追及され、最終的には辞職させられている。その後GPTU第39職業訓練学校に転任するも、職員の削減という理由で1978年9月に退職、シャフトゥイ(Shakhty)の第33職業訓練学校の教師兼舎監として赴任することになった。ここでは、授業中に自分の性器をいじる癖を生徒たちから嘲笑され、「ガチョウ」という渾名を付けられ、夜尿症、異臭がするという理由で生徒たちに馬鹿にされた。

ここでの仕事以来、チカチーロは少女だけでなく、少年男児にも目を向けるようになる。ある夜、チカチーロは寮で眠っていた15歳の少年のもとに忍び込み、少年の下着を下ろしてフェラチオをしながら自分の性器もいじくり回し、少年に抵抗されると遁走した。このことを翌日に全校に知られたことで生徒たちからさらに愚弄され、同僚も陰でチカチーロを笑った。その後チカチーロは散歩中に生徒から襲われて怪我も負ったことがきっかけで、ジャックナイフを携帯するようになった。このナイフが、のちに引き起こす連続殺人で使用されることになる。

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100万人に1人の男

レノチカの事件から3年後、チカチーロはさらに職を追われて鉄道工場の資材調達責任者に転じていた。この転職自体が計画的だったともいわれる。なぜなら資材調達を理由に、ソ連の広大な国土を縦横に巡れるためだ。そうして各地で殺人行脚を続けるうち、チカチーロは犠牲者の舌と性器をひどく破壊、食するパターンを示すようになり、時には死体のまわりで「俺は赤軍のパルチザンだ!」と狂喜乱舞した。

対する警察は、チカチーロの犯行がソ連全土に及んだことや、犠牲者が男女問わなかったことから同一犯と考えず、最終的にKGBが介入するまで統一した捜査を行わなかった。これが犠牲者の増えた理由の一つだったが、まったく逮捕の機会がなかったわけではない。チカチーロはとにかく運がよかった。

1984年9月、ノヴォシャフチンスク郊外。遺体の置かれた茂みのそばで、血だらけのナイフを持ったまま発見されたチカチーロは、不審人物として拘留されたが数日後に釈放となった。その理由は彼の血液型と、殺害現場の精液からABO式で判別された血液型が一致しなかったためである。当時の医学では、血液と精液の型は必ず同じと信じられていた。この概念が覆されたのは1990年のこと。100万人に1人の割合で、血液と精液の型が一致しない人間が生まれると分かったのだ。

チカチーロはその100万分の1人だった。

逮捕後にチカチーロが供述した犯行は55件に及んだ。犠牲者は8歳から16歳の少年少女と成人女性で、家出人や知的障がい者なども含まれていたためか、立証しきれない犯行が数件あり、結果チカチーロは53件(52件とする資料もある)の殺人で立件された。実際の被害者数はさらに多かった可能性が高い。

チカチーロの犯行が常に性欲任せで衝動的にも関わらず、一度も目撃されなかった理由は、時代的にソビエト連邦が崩壊していくなか、欧米文化などが流入し、その享楽的な生き方を求める少年少女が増えたことにある。ロストフ地方においても、家出人や職を失いホームレスとなった若者や売春婦まがいの女性がよく見られるようになっていた。ビデオを見せてやる、お菓子をやるなどと言って彼らを騙し、人気のない場所へ連れ込むのは容易かったのである。もちろん、教職という経歴が幼い子供を扱う際に有利に働いたことは言うまでもない。

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KGBの捜査介入、殺人の終焉

1985年、出張先のモスクワ市郊外で殺人を犯す。この事件をきっかけに、KGBの国内部門が捜査に乗り出し、コストイェフが派遣される。
多数のバス停と鉄道駅で、軍服を着た警官隊による巡回が実施された。狭くて小さなせわしい駅では、諜報活動員による巡回が行われた。この巡回の目的は、大きな鉄道駅やバス停へ犯人を行き来させないためであった。これにより、チカチーロは警察がいないことが明らかな小さな駅で犠牲者を探すことを余儀なくされた。警察の作戦には、売春婦かホームレスのような格好をさせた若い女性の諜報員も数多く参加させた。彼女らは、死体発見現場に沿って広範囲を旅するのと同様に、駅周辺を目的もなく歩き回り続けた。
しかし、彼は大きな誤りを犯した。彼の毒牙にかかった数多くの犠牲者が、警察による大規模な作戦につながったのである。主にロストフ地域周辺のほかの公的な場所と同様に、鉄道駅やバス停において陸軍まで加わった、数多くの大規模なパトロール隊が動員された。
なお、チカチーロは1986年から1987年の約2年間、一切犯行を行なっていない。このころにはペレストロイカの一環としてゴルバチョフが推進していたグラスノスチによる情報公開により、それまで秘匿されていた連続殺人事件の全容が一般に公表され、警察の捜査もそれまでの方針を改め、民間からの情報提供を広く募ることとなった。チカチーロはこの間に殺人犯の捜索にボランティアで協力している。
1988年、チカチーロは殺人を再開する。主にロストフから遠く離れた地域で活動(殺人)した。1990年の1月から11月のあいだに少年7人と女性2人を殺害している。
1990年11月6日、スヴェータ・コロスティック(Sveta Korostik)という22歳の女性を殺害し、体を切断した。実質的に、これが最後の犠牲者である。殺害後、顔に返り血を付着させたまま現場付近を歩いていたチカチーロが警察官の目にとまる。民警が彼の勤務記録を調べた結果、犯行日時と出張記録が完全に一致し、民警およびKGBの監視下に置かれる。事件のあとでさえ、警察はチカチーロを逮捕・起訴するだけの十分な証拠がなかった。しかしながら、チカチーロは絶えず諜報員の追跡を受け、ビデオテープに撮られるなどして、警察の監視下にあった。
11月20日、これ以上チカチーロを泳がせておくのは危険だと判断した民警とKGBは、同日午後3時44分、職場から帰宅するところを逮捕した。逮捕時の様子は警察によりVTR撮影され、時折TVなどで放送されることがある。なお、犠牲者のなかに民警中尉の子女がいたことから、報復を避けるため、取り調べはKGBロストフ支部の建物で民警・KGB合同で行なわれた。取り調べは主にコストイェフ大佐が担当した。
警察は、犯行現場で犠牲者とチカチーロとの乱暴なやり取りの痕跡を数多く発見した。
チカチーロの指の1本には傷があった。チカチーロは職場で荷降ろし作業中、誤って荷物とパレットの間に指を挟んで出来たものだと主張したが、検査した医療検査官は、チカチーロの傷は誰かに噛まれてできたものと結論付けた。後日、指を怪我していたことが分かったにもかかわらず、チカチーロは傷の治療を要求することはなかった。
警察は、自分を尋問し、自白させる警察長官を含めて、自分が病気持ちで医者の助けを必要とする者であるとチカチーロに信じさせるという計画を決めた。この計画は、自白することで精神異常という理由で起訴されることはないという希望をチカチーロに抱かせた。チカチーロの尋問には、最終的に精神科医の手助けが依頼された。
長い話のあと、チカチーロは犯行を自供した。ところが、自白はチカチーロを起訴するのに十分ではなく、より厳然たる証拠が必要であった。チカチーロは、警察がまだ発見できていない埋められた死体を明らかにして自分から証拠を提供した。これにより、当局はチカチーロを起訴するのに十分な証拠を得た。11月30日から12月5日までのあいだに、チカチーロは50以上の殺人を自白した。犠牲者のうち、3人が埋められており、発見・確認が取れなかった。チカチーロのほとんどの自白は、36人を殺害した犯人を目録に入れてある警察に衝撃を与えた。犠牲者の多くが他者との接点がなかったのは、チカチーロが犠牲者を探していた土地から遠く離れた場所で殺されていたためで、チカチーロが警察を先導するまで、埋められた犠牲者は発見されなかった。

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裁判とその後

1992年4月、モスクワの西500マイルにあるロストフ・オン・ドンで行われた公判は、「ロストフの切り裂き魔」と名付けられたロシア史上最悪の殺人犯を一目見ようとする傍聴者によって埋め尽くされた。数時間にわたって起訴状を読み上げた判事は、チカチーロの残虐すぎる犯行内容から、感情を抑えるのにたびたび苦労した。

公判によって事実を知らされた犠牲者の家族らは、法廷内でも意識を失った。ある母親は怒りのあまり、被告に近づこうとすらした。裁判長はこういった民衆の怒りに備え、皮肉にも犯人であるチカチーロを守る鉄格子を法廷内に設置せざるを得なかった。

チカチーロには法廷に入るたび怒号と罵声が浴びせられたが、彼はそのような声を一顧だせず、裁判長や検事に尋ねられるとはっきりと、しかも無礼な態度で、微塵の感情も見せずに答えた。時にはテレビ中継されていることを意識した、演説めいた応答もあったという。以下はチカチーロによる心情の吐露である。

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仕事柄、地方の電車やバスに乗ることが多い。そこには浮浪者が大勢たむろしている。金さえあれば一日中飲んだくれている役立たずどもだ。奴らは駅の便所や汽車の中で平気で性行為に及ぶ。それを見るたび自分の屈辱を思い出す。どうして俺のは勃たないんだ。こいつらのように堕落した奴らが性を楽しんでいるというのに。奴らの仲間になるのは簡単だが、奴らは俺の魂まで堕落させてしまう。奴らは現金を欲しがる。食い物をくれという。ウォッカを飲ませろという。その代償は奴らの体だ。あんな奴らは殺してもかまわない

アンドレイ・チカチーロ 【ロシアにて52人虐殺】

1992年10月14日、チカチーロは52件の殺人罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。アクブジャノフは次のように述べた。「彼が犯した途方もない犯罪を考慮すると、彼は刑罰を受けるに値する。私は彼を死刑に処す」。
判決を受けたチカチーロは、判事に「イカサマだ! お前の嘘なんか聞かねぇぞ!」と罵倒したという。一方で、判決を聞いた聴衆や犠牲者の遺族は拍手喝采を送った。チカチーロに話す機会が与えられると、彼は取り留めのない話をした。政治体制、政治指導者、自身の性的不能、そして1930年代のウクライナ飢饉のころの経験による自主防衛を非難した。チカチーロは「何の価値もない人間を掃除する」ことで社会に貢献したと主張した。チカチーロは、判決を不服として上告する。
1994年2月14日、ロシア連邦大統領(当時)のボリス・エリツィンは、寛大な措置の請願を土壇場で拒絶した。
ロストフの刑務所内にある防音措置を施された部屋に連れて行かれたチカチーロは、右耳に銃弾を受けて処刑された(銃殺刑)。57歳没。

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後の世に影響を与えた作品

『サイコパシー・レッド』(チカチーロを題材としたアメリカ合衆国のヘヴィメタルバンド・スレイヤーの楽曲。2009年発表の『血塗ラレタ世界』に収録。)

"Red Ripper Blues (Andre Chikatilo)"(日本のドゥームメタルバンド・チャーチ・オブ・ミザリーの楽曲。2004年発表の"The Second Coming"に収録。)
ノンフィクション

『子供たちは森に消えた』(1993年発表。映画『ロシア52人虐殺犯/チカチーロ』の原作になった。)

『ロシアの死神(レッド・リッパー)』(イギリスのジャーナリスト・ピーター・コンラッディによるノンフィクション)

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