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1957年の事故から32年も隠ぺいされていた「ウラル核惨事」の恐怖

チェルノブイリ事故の前に起こっていた核施設の事故。しかし、この事故は32年も隠ぺいされていた。

更新日: 2013年11月19日

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haru-tomoさん

1957年、旧ソ連で起こった原子力事故

1957年9月29日、ソ連ウラル地方チェリャビンスク州で発生した原子力事故(爆発事故)

ウラル山中にある原爆用プルトニウム製造工場(マヤーク)で、高レベル放射性廃棄物が爆発

「マヤーク核施設」は、アメリカの原爆開発に遅れをとったソ連が、アメリカに負けじと、1945年(原爆投下直後)に慌てて建造した核施設

・マヤーク核施設周辺では事故前から放射能汚染がひどかった

施設内の工場などで働く労働者らが住む秘密都市(現オジョスク市)と併せ「チェリャビンスク65(旧チェリャビンスク40)」のコード名で呼ばれ、地図にも表記されなかった

爆発事故以前に、原爆製造を急いだソ連では、放射性廃液の垂れ流しや湖への投棄があった

1950年代当初のソ連では、一般には放射能の危険性が認知されていない、もしくは影響を低く考えられていたため、放射性廃棄物の扱いはぞんざいであった

チェルノブイリ事故の際放出された放射能の量を何倍も上回る放射能が放射性廃液として、付近のテチャ川に垂れ流され、また、工場敷地内のカラチャイ湖に投棄されていた

放射性廃液は「カラチャイ湖」という湖に捨てられていたのだが、あまりにも汚染が進んだので、湖を埋め立てることにした

ダンプでガレキを運ぶドライバーはこう言われた。
「12分で作業を完了させよ。特に湖のそばにいられるのは3分以内だ。」
「3分以上いたら死ぬ」と言われたほどの高濃度汚染であったのだ。
ドライバーたちは「エンストしませんように」と祈りながら作業をしていたという。

やがて付近の住民に健康被害が生じるようになると、液体の高レベルの放射性廃棄物に関しては濃縮してタンクに貯蔵する方法に改められた

このタンクを冷却する装置が故障し、事故へとつながった

事故では、なんとチェルノブイリ事故の40%もの放射能量が飛散した

マヤーク核施設にある放射性廃棄物の貯蔵タンクが爆発

中にあった七十~八十トンの高レベル廃棄物が爆発の勢いで上空千メートルまで舞い上がって風下の北東に流れ、広範な地域を汚染した

大気中に飛び出した放射能量は、チェルノブイリ原発事故時の四〇%に当たる約七十四万テラ(10の12乗=一兆)ベクレル

ちなみにチェルノブイリ事故(1986年)の方が後の出来事

数百人の死者を出し、数千人が強制退去させられたり、病院に収容されたりした

しかし、これだけの事故に関わらず旧ソ連は隠ぺい

放射性物質が広範囲に降り注いだにも関わらず、周辺住民がその事実を知らされることはなかった。マヤークにおける核開発は、国家の機密事項であったのだ

事故は旧ソ連で起こったために極秘とされたが、1958年には「何かがあったらしい」程度の情報がアメリカ国内にも伝わることとなった

・1976年に事故に関する論文が発表されたが、否定されてしまった

1976年の夏、ジョレス・メドべージェフは、イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』の編集者の求めに応じて、事故に関する論文を発表した

ジョレス・メドべージェフは元オブニンスク放射性医学研究所:分子放射性生物研究室長

しかし、ソ連は真っ向から否定し、欧米諸国も事故を信じなかった

欧米諸国はもちろん、日本も核開発に取り組み、国策として原子力発電を推進していた時期であり、彼の論文は、海外でも”たわごと””サイエンス・フィクション””想像上の作り話”だとされた

日本では福島第一原発が1971年~1979年にかけて建設されており、まさにその時期にあてはまる

結局、公式に発表されたのは事故から32年後の1989年の事だった

1989年9月20日、グラスノスチ(情報公開)の一環として、外国人(日本人5人)記者団に資料が公開されるまで真相は明らかにされてこなかった

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