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太地町のイルカ追い込み漁の歴史について暫定的なまとめ

今回は、太地町の追い込み漁の歴史についてざっくりとまとめてみました。さて、追い込み漁とはどんな経緯で始まったのでしょうか?

更新日: 2016年03月22日

fukupageさん

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2016/3/22 追記

このまとめの内容と、後にわかったことなどを動画にまとめました。
素人の作る動画なので、まとまりが悪いかもしれませんが、もしよろしければご覧ください。

このまとめの内容と、新たにわかったことを動画にまとめました。
20分程度の内容です。お時間のあるときにご覧ください。

はじめに

このまとめは、太地町のイルカ追い込み漁(「イルカ追い込み漁」と書くと、イルカのみを対称にしていると思われる方も多いだろうが、実際は回遊する小型鯨類全般を捕獲する手法です)について、手持ちの資料や関係者の証言などを、暫定的にまとめたものです。
太地町のイルカ追い込み漁のルーツはどこで、どのように変わって行ったかということを知りたい方に、参考にしていただければと思います。

追い込み漁とは

そもそも、追い込み漁とはどんな漁法でしょうか?
それは、地形や対象の魚類や鯨類の習性を利用して、網や入り江に追い込んで捕獲する漁法で、様々な場所で現在でも行われています。
主に音を立てることで、対象をおどろかせて、網や入り江に追い込みます。
その際に、海底の石を泳ぎながら叩いたり、船の上から石を投げたり、船の側面を叩いたりと、様々なバリエーションがあります。
特に特殊な漁法でもなく、特に残酷な漁法でもありません。
突き詰めると、恐らくは最も古典的な漁法のひとつと言っても、差し支えはないでしょう。

古式捕鯨時代の太地浦

太地町で制作・販売をしている「くじらの町太地を巡る/くじらと共に生きる和歌山県太地町」というDVDより、古式捕鯨の再現部分のスクリーンショットです。

セミクジラが呼吸のために海面に浮上。噴気(ケ)をたてながら呼吸をします。

セミクジラの噴気を山見などが確認出来次第、勢子船がセミクジラを追い始めます。
全力での勢子船の速力は相当速かったようです。

複数の勢子船が捕獲対象であるセミクジラを囲うように陣形を整えます(これは現在の追い込み漁にも通じるものです)。

勢子船に乗った水主(カコ)たちは、鯨を包囲すると、櫓を木槌(一説には貫抜)に持ち替えて、

勢子船の船底や船縁を叩いて音を出します。この音を鯨類は嫌うため、逃れようと反対方向に泳ごうとするのです
(なお、この技術も形を変え、現在の追い込み漁に生かされています)。

やがて鯨は網代(網の張りやすい浅めの入江などを指す)に張られた網に追い込まれていきます。

最終的に鯨は網に絡まり、捕殺後も沈んでしまうことのないような状態になります。

さて、太地の話をしましょう。
太地町の捕鯨は、1606年頃に、当時の権力者である和田忠兵衛頼元が、尾張師崎の漁師「伝次」と堺の浪人「伊右衛門」を太地浦に呼び寄せ、鯨を銛で突く「突き捕り式」と呼ばれる捕鯨を始めたことが起源とされています。
しかしこれは、大型の鯨を捕獲するために、既存の捕鯨方法を組織化し、大規模な捕鯨にしたことが評価されるところで、小型の鯨や沿岸性の鯨は、その前から捕獲されていました。
捕鯨の効率は上がり、失敗することもやや少なくなりましたが、一部の鯨は死ぬと沈んでしまうために捕獲できないこともありました。

次に生み出されたのが、網掛式突き捕り方という、追い込みを伴う手法でした。
網掛式突き捕り方とは、網代(あじろ)と呼ばれる浅瀬に網を張り、そこに鯨を追い込んこんで網でくじらの自由を奪い、銛などで突きとった跡も沈まないようにする方法です。
鯨を追い込む際には舷側(船の縁のこと)を叩き、音を出していたようで、この描写は、歴史小説「巨鯨の海」の23-24ページに登場します。

では、小型の鯨類は捕獲されていたのかというと、その形跡は、当時の絵巻物から伺えます。

大背美流れ以降

大背美流れとは、太地で起きた、日本では最大規模の海難事件のことです(詳しくは下記リンク先をご覧ください)。
大背美流れによって、太地は壊滅的な被害を被りましたが、実は網取式での捕鯨は、企業や資産家の個人によって、何度か続けられました。
しかし、網取式の捕鯨はあまりにも大掛かりな漁業でしたから、徐々にコストのかからない洋式の捕鯨に切り替わっていきました。

古式捕鯨では対象とされず、漁閑期の獲物であった小型の鯨種「ゴンドウクジラ」を網に追い込む漁法や巻網式の捕獲方法なども開発されかけたが、結果的にはうまく行かず、てんと船による突き獲りが盛んに行われた。

また、南紀の他の町と同様に、海外に移住する人も多く、1883年から始まり、1889年にはオーストラリアへの、1891年にはアメリカへの移住が開始されました(最終的には200名以上が移民として海外に渡った)。
海外に渡航したものの中にも、捕鯨への想いが強いあまり、再び太地に帰ってくるものもいました。その一人である前田兼蔵氏は、帰国後に前田式連発捕鯨銃を開発し、ゴンドウクジラを対象にした捕鯨に大きな威力を発揮しました。

また、昭和に入ると、南極での捕鯨へ参加することが、町の大きな産業になりました。
昭和37年には合計223人が南極海での操業に携わっていたことが、太地町史(p478-p479)に記載されています。

……つまり、様々な形で捕鯨という文化は、太地には生き残っていたことがわかってきます。

しかし、その一方で、太平洋戦争の影響で太地は漁港としての機能を失います。
潜水艦の雷撃を危ぶみ出港もままならず、また漁船の徴発や、漁撈者の徴用などで終戦直後には操業ができないような状況にまで陥っていました。

1906年 追い込み漁のルーツである漁業に関する報告書

粕谷俊雄著「イルカ―小型鯨類の保全生物学」によると、追い込み漁のルーツは寄せ物に関する漁業であったとされている。その寄せ物に関する記録として、1906年(明治39年)1月29日付の報告書の内容が太地町史に残されている(P423-424)。
その中に「牛頭鯨(ゴンドウクジラ)」という記述(赤枠)の記述があり、その当時から小型鯨類の捕獲が行われていたことがわかる。

前述の記録は、この書籍に記載されたもの。
粕谷氏は小型鯨類の研究の第一人者であり、後述のIWCの記録も氏によって書かれたもののようだ。

1933年 記録では一番古い追い込み漁

1993年のIWCの資料のp442に、このような文章があります。

The people of Taiji have exploited and whales since the early 17th century using hand-harpoons, the net-whaling technique, shot guns and purse seines.
The oldest records of dolphin driving are from 1933.
These have been followed by additional opportunistic operations.

出典RS47_IWC_1993_Forty-Third Report of the Commission.pdf

上記PDFの「EXISTING DRIVE FISHERIES」の冒頭より

つまり、IWCでさえ1933年に追い込み漁が行われていたことを認めています。
太地町史によれば、1933年だけで3回追い込み漁が行われ、そのうち2頭を生きたまま販売していることが記されています(p494-p495。残念なことに、運送中に死んでしまったそうです)。
日本の水族館で初めての鯨類の生体展示は、1930年の中之島水族館(現・三津シーパラダイス)だと言われていますから、1933年の追い込み漁で、生体展示の話が出てくることは、不思議ではないでしょう。
また、1936年に行った追い込みで捕獲したゴンドウクジラ25頭の中から3頭を、阪神水族館(現・甲子園阪神パーク)に運送し、展示した記録も残っています(運送中に1頭が死亡)。

当時の追い込み漁は、現在の畠尻湾へ追い込むのではなく、太地湾(現在の太地港があるところ)へ追い込んだようですが、舷側を叩いて音を出す手法自体は知られていた(「イルカを食べちゃダメですか?」p114)ことからも、追い込みという手法は過去から伝わったものだと考えることができます。
ただ、この追い込み漁は、漁師仲間がタイミングの合う時に行われる傾向がありました。
というのも、「大背美流れ以降」のところにも書きましたが、様々な事情で追い込み漁を専業で出来るほど、漁師の数が多くはなかったことが、事情としてはあるでしょう。

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鯨食大好き・太地町大好きな愛知県民。本職は末端Web制作者モドキ予備見習い。
「太地町の風景( https://www.facebook.com/Landscape.of.Taiji )」の管理人。

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