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戦後日本で起きた大量殺人事件

戦後に起きた日本の主な大量殺人事件をまとめました

更新日: 2016年08月03日

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win-winさん

相模原障害者施設殺傷事件

2016年(平成28年)7月26日午前2時38分、相模原市緑区千木良にある障害者施設から神奈川県警察と相模原市消防局にそれぞれ、「刃物を持った男が暴れている」との通報があった。事件に気づいた施設の当直職員が、非番の男性職員にLINEを使って連絡を取り、電話で確認の上警察に通報した。現場に駆け付けた医師が19人の死亡を確認し、重傷の20人を含む負傷者26人が6か所の医療機関に搬送された。

死亡したのは、いずれも同施設の入所者の男性9人、女性10人で、年齢は19歳から70歳。また、負傷したのは、施設職員男女各1人を含む男性21人、女性5人だった(なお、被害者の名前について神奈川県警察は同26日、「施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」として、公表しない方針を明らかにしている)。

小平義雄連続殺人事件

昭和21年8月17日午前9時30分頃、東京の芝・増上寺境内の奥まった雑木林に、若い女性が手拭を首に巻かれて死んでいるのを雑木を拾いに来た近所の男が発見した。直ちに警察が調査すると、推定20歳前後の女性が全裸で死んでおり死後10日と推定された。また、この現場から約10m離れた所で、白骨化した女性の死体も発見され、死後推定1ヶ月と見られた。

この事件は、翌日の18日の朝刊で報道されたが、早速行方不明の家族が名乗り出た。母親が全裸死体を確認したところ、三女の緑川柳子さん(当時17歳)であることが確認された。柳子さんは8月6日午前9時30分頃、知人に会うといって家を出たのを最後に行方不明になっていた。そこで、警察はその知人の特定を急いだ。

柳子さんは7月10日頃、勤務先の銀座4丁目にある喫茶店の仕事を終えて帰宅途中、品川駅で小平義雄(当時42歳)に「安くお米を買うことができる」とか「就職を斡旋する」などと声をかけられた。食料難の時期に《この言葉は魅力》である。また小平はこの時期、進駐軍専用の洗濯工場で勤務しており羽振りが良かったことで柳子さんは途端に騙されてしまった。

犯行当日の8月6日、小平は柳子さんに「進駐軍の仕事を斡旋する。食べ物にも事欠かない」と言って品川駅に呼び出した。品川駅で合流すると小平は、「まだ時間があるから散歩しよう」と言って増上寺に連れだし乱暴・殺害したのだった。

柳子さんは、小平の住所を母親に告げていた。この事が決め手となり19日の夕方、渋谷の妹宅で同居している小平を殺人容疑で逮捕したのだった。

小平は子供の頃から粗暴で、戦前に結婚した妻が実家に戻った際、妻の父親を鉄棒で殺害し6人に重傷を負わせている。その後、二度の特赦で僅か6年で仮出所している。昭和19年、小平は再婚した。東京の空襲が激しくなってきたため妻を富山県に疎開させ、小平は軍需工場で働く女性勤労者の女性寮の雑用をしていた。戦後、この寮は女子寮として残り、小平はボイラー係りとして勤務していた。

8月19日の逮捕後の事情聴取で、小平は10件の婦女暴行を自供。戦前、戦中、戦後にかけて同様の手口で女性を殺し、その後に関係を持つという異常な行為であった。小平は取調べ中、終始反省する態度を見せず警察官からもらうタバコを美味しそうに吸いながら、楽しそうに供述したという。

①昭和20年5月25日大森駅で声をかけた女性(当時21歳)に言葉巧みに小平の宿舎に誘い出し暴行殺害。

②同年6月9日国民小学校の少女(当時15歳)に「ビスケットをあげる」と運送会社の自動車置き場で暴行殺害。

③年6月23日疎開先の栃木県清瀬村で食糧に困窮していた主婦(当時31歳)に「知り合いの農家を紹介する」と言って山林内で暴行殺害。

④同年7月12日渋谷駅で声をかけた女性(当時22歳)に「知り合いの農家に行けば米を買える」と栃木県真名子村の山林に連れ出し暴行殺害。

⑤同年7月15日池袋駅で声をかけた女性(当時21歳)に「食糧を買えるところに連れて行ってやる」と言って栃木県清瀬村で暴行殺害。

⑥同年9月28日東京駅で声をかけた女性(当時21歳)に「イモを買えるところを紹介する」と言って栃木県清瀬村で暴行殺害。

⑦同年11月1日渋谷駅で声をかけた女性(当時17歳)に「暖かい場所にきなさい」と言って渋谷駅前の東横デパート地下室に誘い暴行殺害。

⑧同12月30日東武浅草駅で声をかけた女性(当時21歳)に「知り合いの農家に行こう」と言って栃木県下西村の山林で暴行殺害。

⑨昭和21年7月22日前述の白骨化女性。

⑩同年8月6日前述の柳子さん。

小平は以上の10件を自供したが、さらにその後の犯行を仄めかすと警察は慌ててこれ以上の犯行を追求しなかった。それほど、前代未聞の異常な事件だった

「私が女達を殺害した理由は、死に顔を見たいとか、死の苦しみを見て喜ぶとかいったことではないのです。女は殺さなければ言うことを聞かない。殺してからゆっくり楽しんでやろうと思うからです。普通のやり方より死姦の方がいいです。自由になりますから。

女を殺した後、陰部を見ながら、今まさに関係しようとする瞬間が何とも言えないのです。殺されてもよいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を斬られてもかまいません。そんなによいのです」。これは、小平の供述の一つである。

小平は、10件の犯行を認めたが裁判で2件が不起訴となった。が、8件の婦女暴行、殺人、遺体遺棄の罪で昭和22年6月18日東京地裁は小平に死刑判決。昭和23年2月27日東京高裁は小平の控訴を棄却。同年11月16日最高裁は上告を棄却して小平に死刑が確定した。昭和24年10月5日、宮城刑務所で死刑執行された。

http://jikenshi.web.fc2.com/newpage91.htm

和歌山一家8人殺し事件

昭和21年1月29日、和歌山県和歌山市の大橋一雄(当時26歳)は、歯科医師で兄の勝一さん(当時42歳)と兄嫁の伸枝さん(当時41歳)、長男(当時16歳)、長女(当時14歳)、次男(当時13歳)、次女(当時10歳)、三男(当時7歳)、四男(当時3歳)の兄一家8人を斧とノミで殺害した。

大川は殺害後、「母のカタキなり。一ヵ月後に自首する・・・」と書置きして逃亡した。警察は大川の行方を追ったが、終戦から僅かに5ヶ月を経た国内は大混乱しており、今日の食糧確保がままならないという状況では和歌山市周辺を聞き込む捜査以外に方法はなかった。

一方、大川は偽名を使って長崎へ逃亡し炭鉱夫として働いていた。だが、良心の呵責に耐え兼ねて2年後の昭和23年3月19日に大阪の朝日新聞本社に自首してきたところを警察に逮捕された。

大川は大正9年に和歌山市で県庁官吏の父親の子として出生。家庭は裕福で不自由なく育ったが、大川が9歳の時に父親が病死した。このため、自宅の隣で歯科医院を開業していた15歳年上の兄の家で母親と一雄も暮らすようになった。

この頃、兄の勝一さんは両親から反対されていた伸枝さんとの結婚を強引に押し進めた。父親が病死したことが契機となった訳だが、母親は反対したものの渋々結婚を認めるようになった。

結婚当初は比較的穏やかな生活だったが、母親が年老いていくにつれて伸枝さんの発言力が増していき、いざこざが絶えなくなった。そこで、大川は家にいることに嫌気をさして昭和15年3月志願兵として陸軍通信隊に入隊した。

入隊から5ヵ月後に「ハハキトク」の電報が届いた。早速、部隊に「伺い申請」し帰省した一雄は、母親の衰弱した体をみて、母親は兄嫁に虐待されていると思い込んでしまった。この時は、危篤を脱したため帰隊したが、その3ヵ月後に母親は帰らぬ人となった。

死因は心臓麻痺だったが、大川は「兄嫁に虐待されたのだ」と思い込み、「この恨みを絶対に晴らす」と心に刻みながら中国や北海道などを転戦した。

昭和20年10月に復員した大川は、空爆で焼け野原になった焼け跡にバラック作りの家で温かく迎えてくれた兄や兄嫁に対して「全てを水に流そう」と決心し、暫くは穏やかな日々が続いた。ところが翌年の1月27日、夕食中に兄嫁が「お母さんは、死ぬ時に苦しんだ・・・こう、喉をかきむしって・・・」とその時の状況を大川に語りはじめた。この時、大川にスイッチが入ってしまった。「やはり兄嫁は母親を虐待したのだ。恨みを晴らそう」と。そして2日後に兄一家8人を惨殺したのだった。


昭和23年4月27日、和歌山地裁は大川に死刑を言い渡した。同年12月6日大阪高裁は、大川の控訴を棄却した。大川は素直に刑に従うとして上告しないことを表明したが弁護側が慌てて上告手続きを行った。

昭和24年8月28日最高裁は、「被告人本人の意思に反して弁護側が上告したのは不適法」として上告を棄却し大川に死刑が確定した。

ところが、昭和27年4月27日、突然大川は死刑から無期懲役に減刑する旨の通知を受けた。講和条約における恩赦だった。当時80人前後が死刑確定囚として刑の執行を待つ身であったが、「小田原・一家5人殺害事件」のA死刑囚など12人が恩赦で無期懲役に減刑された。

一方、「帝銀事件」の平沢は大きな期待をしていたものの恩赦リストから外された。無期懲役であれば長くても30年後には社会に復帰できる。あまりにも大きな差である。大川は大阪刑務所で20年間服役した後、昭和43年に仮出所して社会に生還した。

http://jikenshi.web.fc2.com/newpage409.htm

寿産院事件

1948年1月15日午後7時半頃、東京・新宿区弁天町で早稲田署員2人がパトロールをしていたところ、自転車に乗って数個のミカン箱を運んでいた葬儀屋N(当時54歳)を見かけた。不審に思って事情を聞き、荷台に積んであった箱を調べてみると、中には嬰児の死体がメリヤスのシャツとオムツに入れられて入ってあった。
「これは寿産院というところから頼まれたもので、火葬場に運んでる最中だ」
 Nはそう言い、話によると牛込柳町(現・市ヶ谷柳町)にある「寿産院」から計4体の遺体を運んでおり、前年の8月以来、20体以上運んでいたのだという。

 怪しいと睨んだ警察は最近死んだと見られるNが運んでいた6つの遺体を解剖してみたところ、3人は肺炎、2人は凍死、1人が餓死で、6人とも食べ物が与えられた形跡はなかった。 
 さらに寿産院を経営する石川ミユキ(当時51歳)、夫の猛(当時55歳)を呼んで取り調べをしてみたところ、同院では大量の子どもが死亡していたことがわかる。まもなく石川夫婦と助手のA子(当時25歳)は殺人罪の容疑で逮捕された。同院から1人500円の埋葬料を貰って遺体を処理していたとされるNは容疑不十分で釈放されている。

寿産院では44年から、新聞に三行広告を出して食糧難にあえぐ母親たちから1人5、6000円の養育費で赤ん坊を預かってきた。当時、タバコの「ピース」10本入りが7円、NHK聴取料5円、新聞月8円であったことを考えると、取引額はかなり大きいものであった。また預かった子どもは1人300円、器量の良い子どもは500円という値をつけて希望者に売っていた。
 敗戦から3年しか経っていないこの年はベビーブームであったが、同時に貧しく、混乱の時代だった。

 警察が駆けつけてきた時には院内に7人の子どもがいたが、1人はすでに死亡しており、残りの子どもも冬なのに肌着1枚しか着せられず、泣く力さえないほど弱っていた。
 それまでに同院に預けられた子どもは合わせて240人にものぼり、そのうち104人が死亡していた。正確には把握できないため、あくまで推定でこの数字である。あの夜、パトロール中の警察官が葬儀屋を見咎めないでいたら、被害児はもっと増えていただろう。

 夫婦は産院を経営すれば政府から乳児用の主食配給が獲得できるため、とりあえず子どもを預かり、食べ物はほとんど与えず、病気になっても放ったらかしにしていた。食事だけではない。風呂にも入れず、親のある子が死亡すると、親のない子が死んだように偽装して配給品を受け取った。そもそも寿産院には多くの子供の面倒を見るだけの人手も、設備もなかったのである。
 石川夫婦は受け取った配給品をほとんど横流ししていたという。さらに子どもが死ぬと、葬儀用に酒が貰えた。これをまた横流しするのである。夫婦がもうけた金は100万あまりにのぼると見られる。区役所の職員らに酒をふるまったりして、戸籍手続き、衛生などの取り締まりに対して便宜をはかっていたということもあった。

http://yabusaka.moo.jp/kotobuki.htm

帝銀事件

1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後3時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物[1]を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人は現金16万円と、安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほコーポレート銀行)板橋支店の小切手、額面1万7450円(現在の価値では数百万円相当)を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できなかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。
全員に飲ませることができるよう遅効性の薬品を使用した上で、手本として自分が最初に飲み、さらには「歯の琺瑯質(エナメル質)を痛めるから舌を出して飲むように」などと伝えて確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませたりと、巧みな手口を用いたことが生存者たちによって明らかにされた。男が自ら飲んだことで、行員らは男を信用した。また、当時の日本は、上下水道が未整備で伝染病が人々を恐れさせていた背景がある。16人全員がほぼ同時に第一薬を飲んだが、ウィスキーを飲んだときのような、胸が焼けるような感覚が襲った。約1分後、第二薬を男から渡され、苦しい思いをしていた16人は競うように飲んだ。行員の一人が「口をゆすぎたい」と申し出たが、男は許可した。全員が台所の水場などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて気を失った。内の一人の女性が失神を繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚。
盗まれた金16万円と小切手1万7450円は、新円切り替えが行われた戦後の混乱期では、現在の貨幣価値に換算すると100倍ほどになる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

北海道一家8人殺し事件

1948年(昭和23年)4月2日、北海道音江村(現・深川市)の農業の上川良一(37歳)一家8人がマサカリのようなものでメッタ切りにされているのが発見された。4月14日、警察は被害者と親しい友人関係にあった同じ村の農業を営む35歳の男を逮捕した。だが、裁判は最高裁まで争われたものの証拠不充分として無罪が確定した。

http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/tairyou.htm

おせんころがし殺人事件

この事件の犯人・栗田源蔵(くりた げんぞう、1926年11月3日 - 1959年10月14日)は、秋田県の極貧家庭に生まれた。川漁師だった父親は病弱だったため母親が家計を支えていたが、典型的な「貧乏人の子沢山」で、源蔵は両親から放置されながら成長した。さらに源蔵は夜尿症が小学校就学期になっても直らず、学校では尿臭が原因でいじめに遭っていた。小学校卒業後は農家に下男として奉公するものの、やはり夜尿症が原因で嫌われて追い出され、1年間に10回以上も奉公先を代わらざるを得なくなる。この夜尿症は後の死刑執行直前ごろまで彼を悩ませ、心身を蝕んでいった。
1948年、ヤミ商売のブローカーとして生計を立てていた源蔵は、三角関係のもつれから静岡県において交際女性を2人とも殺害した。さらに1951年8月8日、栃木県で子供を寝かしつけようとしていた主婦を強姦しながら絞殺した揚句、死姦した。10月10日には千葉県勝浦駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名[2]を誘い出し、日付が変わり翌日深夜長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とした。被害者達は崖の途中に止まっていたが、犯人はそんな被害者達を石で殴打し殺害した。長女だけは軽傷で隠れていたため奇跡的に生き延びる事ができた。1952年1月13日、千葉県検見川町(現在の千葉市花見川区)で主婦と叔母が殺され、主婦は死姦された。この際指紋が検出され、これにより犯人が割り出され逮捕された。
まず、1952年1月13日の事件で千葉地裁で1952年8月13日に死刑判決。1953年12月21日に宇都宮地裁で他の件に関して死刑判決。控訴は取り下げたものの、判決後は衰弱がひどく、再審を繰り返す。1959年10月14日に死刑は執行された。一審で二つの死刑判決を受けた初の例でもあり、後に警察庁広域重要指定事件113号が起こるまでは、この例は裁判例としては死刑を二つ宣告された唯一の例だった[3]。また、1956年に死刑を廃止か存続かの問題で国会で論争になった際には、死刑存置論者に「凶悪無比な特殊な極悪人」として矛先に挙げられた[4]。
本人は「懺悔録」という手記を書いている。曰く、「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と9歳の頃老人に言われたとの事である。本人はこの書物を売ろうとしたが断られてしまった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%8C%E3%81%97%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

青森リンゴ園一家8人射殺放火事件

1953年(昭和28年)12月12日、青森県中津軽郡新和(にいな)村(現・弘前市)でリンゴ園経営者の水本福三郎(56歳)一家8人を三男(当時24歳)が射殺、放火した。「父の家にミソを盗みに行ったところ、猟銃が置いてあり、その猟銃を見ているうちにミソを盗んだことがバレるとこれで自分が殺されると思い、それなら自分が殺してやろうと思い撃ち殺した」と供述した。その後の精神鑑定で「犯行当時、心神喪失状態だった」という結果に続いて、検察側が求めた再鑑定でも「ミソ小屋に入るときから病的なある程度の意識障害を発しており、この状態において鉄砲を発見したことが契機となって被害妄想的思考、それによる恐怖的興奮により、さらに意識障害が深くなり、理性的判断抑制を失い・・・」と強度の心神耗弱または心神喪失にあったとする鑑定が提出された。1956年(昭和31年)4月5日、青森地裁弘前支部は無期懲役の求刑に対し住居侵入罪については懲役6ヶ月・執行猶予2年としたが、殺人関係では無罪判決となった。検察側は控訴した。1958年(昭和33年)3月26日、仙台高裁秋田支部は1審での判決を支持し控訴棄却で無罪判決となった。検察は上告せずに無罪が確定した。

http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/tairyou.htm

福岡一家11人殺傷事件

2003年6月20日午後、福岡県博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。やがてそれらの遺体は福岡市東区に住む衣料品販売業・Mさん(41歳)、妻(40歳)、小学6年生の長男(11歳)、小学3年生の長女(8歳)と判明。殺人事件として捜査がすすめられた。
 まもなく中国人留学生だった王亮(ワンリャン 当時21歳)、楊寧(ヤンニン 当時23歳)、魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)の3人が犯人とされ、魏は国内で、残る2人は中国で身柄を拘束された。

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