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U2の歴史

更新日: 2017年08月23日

BonoReedさん

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アイルランドのロックシーンは隣国イギリスに比して非常にお寒いものだった。
U2以前に世界的に成功したといえるのはヴァン・モリソン率いるThemと彼のソロキャリア。

孤高のブルーズマン、ロリー・ギャラガー。

「アイルランドの英雄」フィル・ライノット率いるThin Lizzy。

ボノの盟友、ボブ・ゲルドフが率い、アイルランド人のバンドとして初めてのUKチャートNo.1に輝いたThe Boomtown Ratsも、すぐに失速していった。

学歴も資産もない音楽好きの青年の誰もが一度は夢見る「音楽で一発当てる!」――そんな淡い夢さえ描けないのが、当時「ヨーロッパのお荷物」と呼ばれたアイルランドの若者を取り巻く環境だったのである。

R&Bバンドを組んで一発当てようとするダブリンの若者たちを描いた映画「ザ・コミットメンツ」でバンドのマネージャー役のジミーはこう喝破した。

「自分の出身地について歌うべきだし、自分の仲間たちについて歌うべきだ……アイルランド人はヨーロッパの黒人だ……そしてそれが誇りだ!」

そんな時代と場所にU2の面々は生まれた。

ボノ(V)。本名ポール・ヒューソン。60年5月10日、ダブリン生まれ。

「俺は下手な詩を書き、葉巻を吸い、ワインを飲み、聖書を読むバンドマン。そして目立ちたがり屋。自分が見えないものの絵を描くのが大好きだ。夫で、父親で、貧しい人々と時々金持ちの友達だ。アイデアを旅して売り歩く活動家。チェス・プレイヤー、パートタイムのロックスター、オペラ歌手、世界で最もうるさいフォークグループの一員」(ボノ・インタビューズ)

U2の曲の中で一番好きな曲は「Stay」。好きなアルバムはヨシュア、アクトン。次にATYCLBとHTDAAB。

ジ・エッジ(G)。本名デヴィッド・エヴァンス。61年8月8日、イギリスのロンドン生まれ。両親はウェールズ人。

子供の頃、頭が大きすぎることがコンプレックスとなって、気弱で引っ込み思案な性格に育ったが、それをギターが治してくれた。IQが高いことでも有名。日本のビジュアル系にビジュアル以外の面で多大な影響を及ぼした人物。

影響を受けたギタリストはデイブ・ギルモア、ジョン・マクガフ、キース・レヴィン、アンディ・サマーズ、ウィル・サージェント、ヴィニ・ライリーなど。

アダム・クレイトン(B)。 60年3月13日、イギリスのオックスフォードシャー生まれ。両親はイングランド人。

少年時代にケニアに住んでいたことがある。マウント・テンプル・スクールに転校してくる前に校則の厳しい寄宿制の学校に通っていたせいで、メンバーの中で唯一の無神論者。そして飲酒運転、大麻吸引、女癖の悪さなどメンバーで唯一少々の問題児。

世界で最もリッチなベーシスト第5位
http://ro69.jp/news/detail/108297

ラリー・ミューレン・ジュニア(D)。61年10月31日、ダブリン生まれ。

U2を結成する前に郵便局員のバンドに所属し、アイルランド中を巡業した経験がある。インタビュー嫌いで寡黙なイメージがあるが、プライベートではアイルランド人らしくお喋りとのこと。またその端麗な容姿からカルチャークラブのボーイ・ジョージに追いかけ回されたことがある。無事逃げ切ったようであるが。

「エッジがバンドの頭脳だ。俺は心で、アダムとラリーが足」(ボノ)

ということでアイルランドのバンドであるが四人のうち二人はUK人である。

アリ・ヒューソン。ボノがジョン・レノンにならずにすんでいるのは彼女のおかげ。ロックスターに珍しくボノは「放蕩なセックスライフなんて退屈な代物だ。唯一の愛を貫く方が、ずっとラディカルだよ」という言葉どおり、アリ一筋で、二人の間には四人の子供がいる。

アリは活動的な女性で、チェルノブイリ事故で被爆した子供たちの写真集やドキュメンタリーを作ったり、発展途上国で生産された衣類を販売するブランドを立ち上げたりしている。

ここに詳しい。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=882161

学校ではポールはかなり目立つ生徒だったが、14歳の時に母親を失ったせいで信心深い一面があった。また近所の悪友たちとリプトン・ヴィレッジという徒党を組み、路上パフォーマンスなどをして、退屈を紛らわせていた。彼らが関心を持ったのは、政治、芸術、セックス、そしてロック。

写真は79年頃、リプトン・ヴィレッジのメンバーが地元紙からインタビューを受けてるところ。 左から エッジ、ストロングマン、ボノ、インタビュアー、ディック(エッジの兄)、ギャビン・フライデー、アダム、グッギ。

グループのメンバーは仇名で呼び合い、ポールは、ステインヘグヴァンフイセノーレグバンバンバンバン、後にオコンネル・ストリートのボノ・ヴォクス、縮めてボノ・ヴォクス、さらに縮めて単にボノと呼ばれるようになった。名前の由来はダブリン中心街の大通り、オコンネル・ストリートにある補聴器店の名前である。ちなみに後にグループの「非公式メンバー」になったU2の他の三人にも仇名がつけられ、デイブにはインチコア、後にボノがそれをエッジに変え、ラリーにはジャムジャー、アダムにはスパーキーもしくはミセス・バーンズという仇名が与えられた。うち後二つは定着しなかった。

「U2の純粋な動機ばかり着目されるきらいがある。けれども俺たちがバンドを始めのは最も不純な動機からなんだぜ。学校にはうんざりしていた。工場でも働きたくなかっし、政府ために働くのもごめんだった。学校の教師にも軍人にも、とにかく何にもなりたくなかったんだ」(ボノ)

76年9月、学校の校内掲示板に一枚の貼り紙が貼られた。

「当方、ドラムセットにお金を無駄遣いしてしまいました。僕と同じようにギターにお金を無駄遣いした人はいませんか?」

貼ったのはラリー・ミューレン・ジュニア。ロックバンドを結成したがっていた息子を見かねたラリー・ミューレン・シニアのアイデアだったが、ラリー自身は「ただ楽しむだけのつもりだった。それ以外何のアイデアもなかったし、何も期待していなかった」のだという。

9月25日、貼り紙を見た生徒7人がラリーの自宅にやって来た。顔を見せたのはボノ、エッジ、エッジの兄のディック、アダム、その他二人。

結局、ボノ、エッジ、アダム、ラリー、そしてエッジの兄のディックの5人が残り、バンド名はFeedbackに決まった。理由は演奏するとフィードバック=元に戻ることが多かったから。年長で既に大学生だったディックと他の4人の関係は最初からぎくしゃくしていた。

そしてこの年の冬、学校のタレントコンテンストでFeedbackはディック抜きで初めてのギグを行い、ピーター・フランプトンの「Show Me The Way」とベイシティ・ローラーズ「Bye Bye Baby」を演奏した。ぎこちない演奏だったが、生徒には大いに受け、遊びのつもりのバンドが少し本気になった。

その後、バンドはせっせと練習とギグを繰り返す日々。が、バンドの演奏技術はお世辞にも上手いとはいえず、他人の曲を演奏できなかったので、やがて自分たちで作曲するようになった――が、これが功を奏して、カバーばかりやっていた他のバンドと違い、自分たちのスタイルを早めに築くことになったのである。この時、ボノが初めて作った曲は「What's Going On」。当時、ロックしか聴かなかったボノは、マーヴィン・ゲイに同名の曲があることを知らなかった。いまだ発掘されていないようだが、カントリー調の曲らしい。他のメンバーも作曲を試みたが、結局、完成させたのはエッジだけで、タイトルは「Life On A Distant Planet」。

78年、RTAテレビのプロデューサーの前で自分たちの曲だと偽ってThe Ramonesの曲を演奏し、「好意的な評価」を得たThe Hypeは、初めてのテレビ出演を果たした。演奏したのはオリジナル曲の「The Fool」。収録したのは78年2月の最後の週か3月の最初の週、オンエアされたのは3月末。収録した時のバンド名はThe Hypeだったが、オンエアされた時にはバンド名はU2に変わっていた。

The Hypeという名前がどうもしっくりこなかったので、当時バンドのマネージャー役だったアダムが、アイルランド初のパンクバンドと言われるThe Radiators From Spaceの元メンバーで、当時広告代理店で働き、「Boy」以降U2のすべてのジャケットを手がけることになるスティーヴ・アブリルと一緒に新バンド名を考案。そのリストの最後にあったのが「U2」だった。

ボノは「解釈の仕方が無限だろ? 僕の中ではU2偵察機よりもUボートのイメージだった」などと言っているが、アダムはただ「文字一個、数字一個だけだからポスターに名前を大きく書けるし、普通の会話で使う言葉だから、宣伝文句等の中にも滑り込ませやすかった」からそうしただけった。

そしてアダムの思惑は当たった。

78年3月18日、U2はLimerick Civic Week Pop '78に出場。「Street Missions」「Life On A Distant Planet」「The TV Show」の三曲を演奏し、36組のバンドとの争いを勝ち抜いて、見事優勝した。賞金は500ポンド、他にトロフィーとCBSアイルランドでデモセッションをする権利を得た。

当時の新聞記事
http://www.limerickcity.ie/media/music%202%20211.pdf

が、同コンテストを戦ったバンドの一であるザ・ダブズのギタリスト、フラン・ケネディが、後年、こんな証言をしている。

「正直言って彼らが勝ったとき、みんな唖然としました。だって本当にひどかったんだから! ボノの声がやたらでかくて耳障りだったことは覚えています。金属ボタンと肩章のついたダブルのジャケットを着ていたかな。彼らの出す音はまったくお話にならないと僕らは心から思いました。基本的なことしかできないミュージシャンで、楽器をあまり上手に弾けなかった。当時は初心者に毛が生えた程度でした……コンテストに出たバンドは皆競って知り合いになろうとしていたのに、U2のメンバーだけ、その輪に加わろうとはしませんでした……審査員の中にホット・プレス誌(ダブリンの音楽雑誌)の編集者が一人、RTEラジオの社員が一人いて、U2のメンバーに話しかけていました。その二人は他のバンドの連中には話しかけていませんでしたね」(フラン・ケネディ)

そしてこれを機に、前々からバンドのメンバーとしっくりいっていなかったエッジの兄、ディックが正式にバンドを脱退する。メンバーにとっては辛い決断だったらしいが、政府から奨学金どころか給料を貰って大学へ通うほどの秀才だったディックは、音楽よりも大学で専攻していたコンピューターサイエンスの方に興味が移っており、渡りに舟だったとか。

ディックは学業の傍ら77年~84年までヴァージン・プルーンズでギタリストを務めた後、88年~96年まで Screech Owlsというバンドでギターを弾いていた。

ここで音源を聴ける。
http://gavinfriday.com/archive/people/dik-evans/

その後、イギリスの名門大学、インペリアル・カレッジ・ロンドンでコンピューター関係の博士号を取得し、現在はコンピューターサイエンスの研究者をしているとのことである。

コンテストの後、U2はRTEテレビのヤングラインという番組に出演。先に収録した「The Fool」より先に放送されたので、これがU2の初めてのテレビ出演となる。

また4月、アダムの電話攻勢が功を奏してホット・プレス誌のビル・グラハム(写真前列右から二人目:アメリカの大物プロモーターとは別人)が、コンテスト優勝で得たCBSアイルランドのデモセッションに立会い、初めて雑誌にU2の記事が載った。以来、ビルは駆け出しのU2の記事を頻繁に書いてくれ、U2の恩人といってもいい存在になる。そのビルからU2はマネージャーとしてポール・マクギネスを紹介される。

U2とポール・マクギネス(写真中央)が初めて顔を合わせた時の写真。先日、引退するまで、陰に陽にバンドを支え続け、「5人目のU2」と呼ばれている。

この年の6月、メンバーは全員学校を卒業し、親から一年の猶予期間を与えられてバンド活動に専念したーーが、なかなかレコード会社との契約を取り付けられない。

写真は最近になって発掘されたRSOというレーベルからのU2の曲の不採用通知。


「ヒューソン様

『U2』のテープをRSOにまでお送りいただいてありがとうございました。慎重に吟味しながら聴かせていただきましたが、現時点の弊社には向いていないように感じました。

今後のあなたたちのキャリアが幸先のよいものになることをお祈りしています。

親愛を込めて

アレクサンダー・シンクレア」

1978年5月10日付

79年 IRE19位 
・ホットプレス誌が選ぶ年間ベストアイリッシュシングル第1位

が、ダブリンのダンデンライオン・マーケットのショーでギグを行って好評を博すと、ようやくCBSレコードとアイルランド国内でシングル盤を発売する契約を結び、「Out Of Control」「Boy/Girl」「Stories For Boys」の三曲が入った「U2 3」を発表した。プロデューサーは Chas De Whalleyという音楽評論家。記念すべきU2の1stシングルである。ソングライティングに目覚しい進歩が見られる。

が、アイルランドは北アイルランドを足しても当時人口三百万超の小国。アイルランドで売れただけでは生計は成り立たない――ということでU2はイギリスのレコード会社とアルバム契約を取り付けるべく、二週間のイギリスツアーを敢行することにした。

が、出発直前、このツアーのマネジメントを手がけた元ピンク・フロイドのマネージャー、ブライアン・モリソン(写真)が契約額を三千ポンドから千五百ポンドに減額すると通告、さらに暗にラリーを首にするようにほのめかした。激昂したメンバーは、この話を蹴って、家族や友人に頭を下げまくって費用を捻出し、イギリスへ渡航した。

後年、当時の思い出をMCで語っている。3:20あたりから。

が、その甲斐もなくバンドはレコード会社の契約を取れず、手ぶらでダブリンに戻る羽目になった。どうやら当時のUK子にはU2の音楽は少しナイーブに映ったらしい。

約束の猶予期限の一年は既に過ぎている。バンドは解散の危機に瀕していたーーとそこでU2は一世一代の大博打に打って出る。ダブリンに戻ると、周囲に「イギリスツアーは大成功だった」と嘘八百を吹聴して回り、決死の覚悟でアイルランド国内ツアーに挑んだのだ。嘘も方便。後にノーベル平和賞候補にも挙がるボノたちの涙ぐましい努力だった。

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