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【ポル・ポト/チャウシェスク/フランコ】世界の有名な独裁者たち

独裁者と聞くとすぐに名前が浮かぶのはヒトラー、スターリンといった政治家ではないでしょうか。しかし世界にはもっと色々な独裁者が居ます。ここでは“名前を聞いたことはあるけれど、実際何をした人なのかがよく分からない”というような歴史上に名を残しつつも、ややマイナーな独裁者を三人紹介したいと思います。

更新日: 2013年12月23日

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poppoppopboyさん

1.ポル・ポト(民主カンプチア首相/クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長)

ベトナム戦争時、アメリカの支援を受け当時カンボジアの政権トップに君臨していたロン・ノルは国内のベトナム人を徹底的に弾圧。それに乗じる形で米軍はカンボジア国内に潜伏する共産主義勢力の弾圧を進め、農村部への爆撃等を推し進めます。
ロン・ノルへの不信感を強めた国民の支持を集めたポル・ポトは武力闘争を開始。カンボジア内戦が始まります。ベトナム戦争に敗れ米軍はベトナムの他、カンボジアからも撤退。間もなくロン・ノル政権は崩壊し、ポル・ポトが政権を奪取。以後、ポル・ポトによる徹底的な国家の改造が始まります。

ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を弾圧した。通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。更に国民は「旧人民」と「新人民」に区分され、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。「新人民」は、「サハコー」と呼ばれる生産共同体へ送り込まれ、劣悪な環境と過酷な強制労働に駆り出された。彼らの監視に当てられたのは「旧人民」であり、密偵と称される集団はポル・ポトから「敵を探せ」と命じられていた。しかし、当初こそ特権的な暮らしを享受した「旧人民」も農村に人口が流入すると食糧不足により、「新人民」同様に働かされるようになったという。こうした過酷な労働と、飢餓、マラリアの蔓延などにより多くの者が生命を落とした。

ポル・ポトの思想は“原始共産主義”と呼ばれる共産主義思想の内、最も過激な部類に入るものでした。格差・階級、引いては『知識』も無い原始的な社会を夢見たポル・ポトは『資本論』の著者であるマルクスが資本主義の発展を経た上で社会は共産主義に移行していくと述べているところ、社会の変容プロセスを省略し、カンボジア社会を強引に原始共産制に移行することを試みました。

そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。
だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。

さらにポルポトは子どもを積極的に社会的な役割に着かせます。兵士も13歳以下の子どもが採用されました。その理由は「悪質な」思想に染まっていないから、原始共産主義を良く「理解」するからとのことです。他にも強制収容所の看守も子どもでした。子どもが大人を監視する社会が生まれていたのです。ちなみに強制収容所に入れられた「知識人」たちは漏れなく殺されましたが、中にはイソップ物語を話すことが出来たおかげで少年看守たちに匿われ、生き延びることができた人もいました。まさか、イソップ物語が自分の命を救うとは夢にも思わなかったでしょう(-。-)y-゜゜゜
このように重要な仕事に子どもが着いたわけですが、最も悲惨だったことは医者まで子どもだったということです。このような子供医者は数カ月のにわか仕込みの医療教育を受けただけで、ろくな医療知識も持っていませんでした。そんな子供医者が治療するもんですから、結果は皆さんの予想通りです。子供医者がろくな消毒もせずに注射した傷口は膿み、それが原因で死亡する人が続出。さらに子供医者は手術まで行います。あれ??それって最早、手術じゃなくて解剖じゃね??

原始共産制を夢見るポル・ポトにとって、知識人は不要な存在でした。知識は人々の間に格差をもたらす。故に国家の指導者層以外の人間に教育は不要である。ポル・ポトはそのように考えました。子供に教育を行う。本を読む。ラジオを聴く。海外に行く。国民のそうした行為は全てポル・ポト政権下においては粛清の対象となりました。多くのカンボジア人の成人男性、成人女性が処刑されました。ポル・ポト政権崩壊後のカンボジアの人口比を調査したところ、全国民の85パーセントが十四歳以下の子供だったそうです。

2.ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア初代大統領)

第二次世界大戦の敗戦によりソビエト連邦に占領されたルーマニアでは、共産党による一党独裁体制がスタートします。実質的な最高指導者に就任したゲオルゲ・デジは1950年代末からソビエト連邦や東側諸国との外交の枠組みを超え、西側諸国との交流を開始。1965年にデジはガンにより死去。後を継いだチャウシェスクは自身の国内人気と一党独裁体制を背景に、様々な政策を打ち出していきます。

政権を獲得してからしばらくの間の外交政策は、ソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。1960年代、ルーマニアはワルシャワ条約機構へ積極的に干渉し、1968年のチェコ事件に対しては、チェコスロバキアへのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。一方でソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアの態度を「うわべだけのもの」とさほど重要視していなかった。

チャウシェスクは言わば自国民に冷たく、諸外国に愛想を振りまく独裁者でした。ルーマニア初代大統領として外交に精を出し、多くの東欧諸国が出場を辞退したロサンゼルス・オリンピックにも参加。西側諸国への外交アピールはそれなりに効果があり、ルーマニアは一時は社会主義の成功事例とも見なされました。

チャウシェスクは策謀に長ける一方、主に経済及び社会問題に対する知識・対応力には疑問符がつきます。
チャウシェスクは国内で生産した農作物等の大半を国外に輸出していました。
そのため、一部の国民は増え続ける子供にミルクや満足な食料を与える事も出来ず、子供をやむなく捨てました。当時のルーマニアの内情は街に店は無く、冬には暖房や水が止まるという困窮を極めるものでした。そうして街に溢れかえった孤児たちは後に”チャウシェスクの子供たち”と呼ばれ、ルーマニアの大きな社会問題となります。
またチャウシェスクは「共産主義国家にはエイズは存在しない」との主張を展開。国内で発生するエイズに対し、何の対応も行いませんでした。
エイズもルーマニアの大きな社会問題となりました。

チャウシェスク最大の罪は1966年人工流産(堕胎、英語ではabortionという)を禁じたことだ。彼は同年、中国と北朝鮮を訪問し多大の人民の大歓迎を受けた。そこで愚かにも大人口が国力の源泉なりと錯覚したのだ。これは戦時中、日本の軍閥政府が同じ思想の下、“生めよ増やせよ”の政策を取ったのに似ている。だが人口は戦力であるとともに非戦力でもある。チャウシェスクはコンドームの販売を一切禁止し、一人でも多くの子供を生ませようとした。子供を5人生めば多くのベネフィットが得られたし、10人生めば英雄としてもてはやされ、あらゆる交通機関が無料となった。
だがこの政策は婦人たちに大きな衝撃と難題を与え、流産できぬため死亡したり、重病人となるケースも多発した。100万人以上の婦人が健康を害し、そのうち半数が死んだとされている。

『有能な政治家』としてのチャウシェスクの名声は、ルーマニアからアメリカなどに向け亡命を図る人々が続出したことにより揺らぎ出します。特に痛手となったのは1978年、ルーマニア秘密警察の幹部であったパチェパのアメリカへの亡命です。パチェパは1986年、チャウシェスク政権によるアメリカの産業への大々的な工作活動や西側への外交アピールの内情を暴露した書籍を発表。チャウシェスク政権は秘密警察の再編を余儀なくされますが、それは最後までうまくいきませんでした。

1989年、ルーマニア革命が勃発。
12月25日、逃亡先にて妻・エレナと共にチャウシェスクは銃殺刑されました。

3.フランシスコ・フランコ(スペイン首相)

反ファシズム陣営とファシズム陣営が衝突し、第二次世界大戦前哨戦の様相を呈したスペイン内戦にて反乱軍を指揮したフランコはドイツ・イタリア両国の支援を受け、三年に及んだ内戦を勝利で飾ります。内線後、フランコは国家元首に就任。スペイン統一後には「国家元首法」により緊急立法権が付与され、フランコの元に多大なる権力が集中することとなります。

1939年後のフランコの外交政策は中立という立場でした。しかしドイツが勝っている間はドイツ、イタリアを支援し、ドイツが劣勢になると英米などの連合国側に親しくするという実に日和見的な中立でした。首尾一貫性に欠け、思想やイデオロギーなどには関心が皆無な現実主義者でした。
ドイツがソ連へ侵攻し華々しい進撃を見せると10000人のスペイン人義勇部隊をドイツに送ったのです。
日本の勢いの良い時代には満州国を承認し、真珠湾攻撃では日本へ祝電を送ったのです。当然アメリカは気分を悪くしスペイン制裁を試みます。
しかし戦後、冷戦状態が厳しくなると防共の旗手としてアメリカに急接近し、1953年にはアメリカとスペインの共同防衛協定を締結し、アメリカから多額の軍備援助を貰い、完全に自由主義陣営の勢力圏に入るのです。そしてソ連や東欧圏の共産主義と対決姿勢を取ります。
1959年はアメリカのアイゼンハワー大統領を訪問し親米国家として国際社会に認められたのです。

フランコは”風見鶏”という言葉が似合う独裁者であり、諸外国に対し中立的かつ一貫した態度を取らないことにより、第二次世界大戦の戦火を逃れ、最晩年までファシスト政権を維持するという一種の“偉業”を達成しました。ファシズムを標榜するヒトラーやムッソリーニといった他国の政治家に比べ、フランコは“現実主義者”だったという言い方が出来るでしょう。

フランコに関するエピソードの内、最も有名なものにヒトラーとの会談があります。スペイン内戦の際、支援を受けたことでドイツに対し“借り”のあるフランコに対し、ヒトラーはスペインの(ドイツ側としての)第二次世界大戦への参戦を要求します。しかしフランコはスペインが内戦のダメージから立ち直っていないことなどを理由に、ヒトラーに参戦の確約を与えませんでした。

ヒトラーは、フランコを参戦に動かせなかったにがにがしさを表現して、のちにこう述懐している。
「このような会見をもう一度ひらくくらいなら、二、三本歯をぬいてもらうほうがましだ」

国王がフランコの側にいて学んだ事は「聞く事、見る事、黙っている事」だったと言います。

フランコにはスペイン統一に対する”執着心”があり、カタルーニャ地方やバスク地方の独立意識を削ぐため公の場でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁じるなどの政策を打ち出したりもしました。そのため、フランコ政権下では「バスク祖国と自由」(ETA)によるテロが活発化しました。そのため、カタルーニャやバスクの人々はフランコ政権下のスペインを“暗黒時代”と捉える傾向にあります。

ただ、フランコがスペイン内戦/内戦後/第二次世界大戦/戦後/と困難な時期において、様々な人種の入り混じるスペインに長期的な安定をもたらしたことも事実です。フランコによるスペイン独裁は正義/悪と厳密な評価を与えることが非常に難しい、ある種特殊な政権だったと言えるでしょう。

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