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一塊紅布  作詞・作曲/崔健

あの日お前は、ひと切れの赤い布を取り出し

俺の目隠しをして、空を見えなくした

そして尋ねた 何が見えるかと

俺は答えた、幸せが見えると……

この曲を演奏する時は、崔健が赤い布で目隠しをし、トランペットを吹くのが定番になっています。

ニューウェーブ期のUKやアイルランドのバンドを思わせるMV(中国ではPVではなくMUsic Video=MVといいます)。このMVはMTVの「最も観衆に好まれたアジア歌手賞」という賞を授賞しました。

これは79年の中越戦争をテーマにした曲らしいのですが、歌詞が検閲に引っかかって削除を余儀なくされ、インスト曲になってしまいました。

93年には、崔健は、張元(チャン・ユアン)監督の「北京バスターズ」という映画に出演しました。脚本の執筆にも関わっているようですが、内容は、セックス、ドラッグ、ロックに彩られた現代北京の若者の青春を赤裸々に描く……というもので、崔健のライヴシーンもあります。

そしてこの映画は第6回東京国際映画祭に出品されたのですが、グランプリを授賞した「青い凧」とともに中国政府の許可を得てないことに抗議した中国代表団が映画祭から引き上げるという騒動を引き起こしました。

結局、この映画は中国では公開されず、監督の張元もしばらく国を離れることになりました。

こんな状況下で上映された張元(チャン・ユェン)監督の『北京バスターズ』 ではあったけど、これは全然面白くない作品だった。 注目していた中国のロック歌手崔健(ツイ・チエン)が出るというので期待してたのに、 できの悪いドキュメンタリーを見たという感じだった。 何組かの若者達をただだらだらとカメラで追っただけで何のインパクトも 感じられなかった。

張元のフィルモグラフィ(の一部)です。http://www.enjoy.ne.jp/~shinji-n/eiga-7.htm#105

アルバムを発表すると、崔健はロンドン、パリ、ベルリンの音楽フェスに参加します。

そしてこの頃になると、日本でも崔健が注目されるようになり、度々メディアで採り上げられた他、92年には、ぴあ20周年記念コンサート、93年には、たまライフ21、福岡アジア映画祭に参加して日本の聴衆の前で演奏しました。

ここで90年代前半の中国ロック事情を概観しておきましょう。

90年代に入ると、劉徳華(アンディ・ラウ)、梅艷芳(アニタ・ムイ)、譚詠麟(アラン・タム)、郭富城(アーロン・クオック)といった日本でも馴染みのある香港・台湾のトップスターたちが中国本土を席巻します。

これに対して中国で起きたのは「紅太陽」ブーム。ロックアレンジされた文革時代の革命歌がラジオから頻繁に流れ、カセットテープは飛ぶように売れました。また街角では毛沢東のプロマイドが売られ、乗用車やタクシーのルームミラーには毛沢東のお守りがぶら下げられていたといいます。猫も杓子も毛沢東――その背景には、市場経済の導入による貧富の格差の拡大、失業者の増大、インフレの進行などの人々の生活不安がありました。ちなみに「新長征路上的揺滾」では毛沢東を茶化していると怒られた崔健ですが、崔健自身は毛沢東のことを建国の父として大変尊敬しているそうです。

そしてもう一つがヘビメタ――中国語では「重金属」――ブーム。黒豹楽隊、唐朝楽隊、眼鏡蛇楽隊、面孔楽隊、1989楽隊といった重金属楽隊(楽隊とはバンドの意味)が若者から熱い支持を受けます。こうした動きに対して崔健は「外国のコピーじゃないかな」という感想を持ったようですが、たしかにそのきらいはあったにせよ、彼らの実力自体は大したものだったのです。

92年に発表した1stアルバム「唐朝」は200万枚を超える大ヒットを記録しました。

洋題?は『Balls Under the Red Flag』、かっこよすぎ。U2みたいだ。どうせ中国のロックなんてコテコテの古いヤツだろ?なんて思ったら、1曲目から驚愕。フリーキーなサックスに「Beck以降」のラップが絡むヒップホップチューン。素晴らしい。2曲目はすでにアルバムの最後クライマックスなんじゃないかというような感動的なバラード。サザンやチャゲアスっぽい、80~90年代前半の匂い濃厚。その後は、フリーキーなサックスや意図的な中華アレンジ、中国語のせいで呪術的に聞こえるボーカルもあってかなかなか前衛的な仕上がり。

とにかく、モダンなアルバムだと思う。1994年の作品なんだがぜんぜん風化してない。Beckのアルバムが今なお古びていないのと同じ。全8曲58分という時間も冗長だとは思わない。新鮮さがはるかに勝る。中村とうよう10点、は伊達じゃない

意味深な歌詞(私、分からないのですが)とMVが話題になったそうです。ヴォーカルがまったくラップテイストで、ミクスチャーロックみたいですね。

「僕自身が今よく聴いている音楽がパワフルな音楽なんだ。特にラップが僕にとって最もパワフルな音楽なんだけど。なぜならラップの特徴は「現実に直面している」ということで、歌詞で言っていることはきれいごとではなく、彼らはとても勇敢に抗っていて、しかも現実の矛盾とか心の内面の痛みを表しているから。こういうことが僕にとって一番新しい「勇敢」の価値、或いは概念だと感じている。だから今、話し方が回りくどくなると疲れたと感じるようになってきたんだ、過去にはそういうやり方をとったこともあったんだけど。今度新しい方式としてより直接的に、簡単に、問題を言ってみた」(崔健)

紅旗下的蛋  作詞・作曲/崔健

現実は石みたいに硬い

精神は卵みたいに脆い

石は硬いけれども

卵には生命があるのだ

お袋はまだ生きている

親父は旗振りをやっている

俺たちは何なのだと聞くなら、答えよう

赤旗の下の卵だと

ちなみにいつの頃からかトレードマークになった白地に赤い星の帽子は、元々ただの白い帽子だったものを、ホテルの従業員の方に頼んで赤い星を縫い付けてもらったものだそうです。

アルバムを発表すると、崔健は、94年から96年にかけて中国国内だけではなく、日本とアメリカでツアーを行います。特にアメリカでは中国人のソロミュージシャンとして初のアメリカツアーだったそうです。

そんな崔健の日本での初めてのソロコンサートが行なわれた。約七〇〇人収容の 全席立ち見のリキッドルームというところで行われ会場は満パイ状態だった。 ほんの一年前までまさか彼のアルバムが日本で発売されたり、 コンサートをやるなんて考えてもみなかったので感激もひとしお。 三枚目の新しいアルパム「紅旗下的蛋」の曲を中心に以前の曲も歌われた。観客は日本人がほとんどだったけど中国人もけっこういた。 中国語の掛け声も飛びかいライブらしい雰囲気だった。アンコールでは 「新長征路上的揺滾」を歌ってくれた。

健は94年と95年に来日している。95年には新宿日清パワーステーションでソロライヴを敢行。圧倒的な支持を受けた。僕もその場にいたがあれは本当に素晴らしいライヴだった。しかしその年の秋に行われたクラブASIAではBOOM目当ての日本人は彼の音楽が理解できず、その結果、参加した艾敬、崔健、ディック・リーは揃って、その後日本から遠のき、アメリカで活躍するようになる。あれは今考えると日本人の音楽的感性の貧困さを露呈してしまった事件だった。

――ということがあったらしく、これ以降、10年まで崔健の来日公演はありませんでした。

ここで再び中国ロック事情を概観しましょう。

天安門事件以降、当局のロックに対する締めつけは徐々に厳しくなっていき、93年頃には北京市内では事実上ロックのライヴは全面禁止になりました。崔健も様々な妨害を受けたようで、ファンキー末吉氏のブログには以下のような記述があります。

1994年にオープンしたハードロックカフェ北京のこけら落としイベントで、BBキングが北京にやって来てライブを行ったが、そのライブを見に来た崔健を当局は入店させなかった。ここまで来ると「締め付け」ではなく、もう「イジメ」の域である。彼の存在は「音楽」を超えて「信仰」の域まで達しており、また頑なにその独自の姿勢を崩さない彼の態度に中国政府は常に面白くないものを感じていたのではないかと思われる。

ツイジィエンライブが中止になった........................絶句。

スタッフの動きが慌ただしくなった。マネージャーたち、プロデユーサーたち、メンバー、みんな集まって討議をしている。もちろん、お客さんたちもざわざわし始めた。

佐藤「崔健、歌うの?公安は歌わせないらしいけど?」
崔健「いや、俺は歌わない。今ここで歌って、後々歌えなくなったら困る。歌わない。」
佐藤「そ、そんなのってひどい。中国って、どうしてこうなの?まったく自由がないじゃない!不自由きわまりないし、道理がない!矛盾している、何が開放だ、何も開放なんかしていないじゃない!」
崔健「・・・・・中国っていうのはこうなんだ。・・・・」
佐藤「私にはどう考えても理解できない、いや、理解しきれない................。」
崔健「まったく。」

崔健は、わりと冷静だった。彼はいつもクールだが、こういう時も慌てふためいたりしない。私と違う。客観的かつ冷静に物事を判断する。後に起きるであろうことまで予測して考える人だ。やはり、スゴイ、さすが中国ロックのカリスマだ。

とりわけ崔健に対する取り締まりが厳しかったのは、崔健の歌が「政治的」だったからでしょう。が、果たして政治的とはどういうことでしょうか? そのことについて崔健は各所でこう語っています。

「……芸術は民主化運動ではない、と俺は思う。芸術は、表現なのだ。芸術とは物理的反応ではない……そうではなくて化学反応みたいなもの……俺はみんなに自分を愛してもらいたい。国家を愛してもらいたい。歴史を愛してもらいたい。自分の履歴を愛してもらいたい。自分の未来を愛してもらいたい」

(政治的な歌詞が多いのではないかという質問に対して)「そう、だけど実際それらの歌詞、たとえば「運動」などは、僕たちが受けてきた教育の痕跡のひとつで、これらは避けたくても容易ではないものだし、実際に歌詞の中で言っていることは僕たちの心理であって決して単に政治をさすものではない。僕たちの受けてきた教育は事実、基本的に拭い去ることができなくなっている、もうこんなに何年も経っているからね。だから詞として使用してはいるけれど、描写していることは決して政治ではなく、『心理の政治に対する反応』、或いは『より政治的色彩を帯びた心理反応』の方なんだ」

「……スポーツは成果を上げれば国を振興し、国に栄光をもたらす。スポーツが強いほど、国も強い。しかしロックがその力を出せば、その煽動性はスポーツの比じゃない。そしてこのパワーは反対の方向のもので、音楽が強くなるほど、国の権力が弱まるかのようだ。実際、僕らの社会にはある種の利益における混乱が発生する。あるいはそれを「職業の混乱」と呼んでもいいかもしれない。例えば、ある芸術家は国家を至上とし、政治家は政党を至上とみなす。でも僕の考えでは、芸術家は人間性を至上とすべきだし、政治家は国家をこそ至上としなければならないはずだ。これらの食い違った関係は利益と道徳の領域において人々に混乱を巻き起こす。もし僕らが一つの標準的利益を確認できるなら、目の前の混乱を免れ、なおかついわゆる人間性と国家は利益の面においても統一されるだろう。なぜなら、僕ら一人一人がみな国家をつくる人として存在するからだ。」

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