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【プロレス】リングに散ったレスラー プロレスにおけるマット禍(死亡事故) まとめ

四天王プロレス以降、どんどん過激さを増していったプロレス。2009年6月13日、三沢光晴のリング上での死という最悪の帰結を迎えてしまいます…リング禍ならぬ、“マット禍”をまとめました。

更新日: 2016年05月27日

hakatanotoraさん

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プロレスにおけるリング禍は、その競技の特性上などから “マット禍” という表現が用いられることも多い。

80年代後半までは少なかった…

プロレスの場合、それぞれ投げ技・打撃技・関節技などお互いの技の攻防が中心であり、プロレスラーは身体を徹底的に鍛え抜き、「受身」の技術も含めて技による打撃・衝撃に耐えうる様に訓練していることや、試合中の選手相互の間合い、そして相手選手の身体に過剰な負担が掛かる危険な技は頻用しないという暗黙の了解によって、1980年代後半までは、試合中において選手生命に影響する深刻な受傷があったとしても、死亡に至る事故は非常に少なかった。

1990年代以降、より過激なパフォーマンスを求める方向性として、受け身の取りにくい非常に危険な技が数多く考案され多用される風潮が強くなってきた。これらの過激な技の応酬によって身体へのダメージが着実に蓄積され、深刻な後遺症を与えることも少なくない。

また、本来ならばリングに上がることは到底無理な健康状態であったにもかかわらず、団体の運営・興行上の都合や選手自身の経済面の問題などからリングに上がり技を受け続け、致命的な事故に繋がった可能性を考えなければならない事故例も見られる様になった。

日本人選手のリング禍

日本国内のプロレス興行において、日本人選手が試合中の事故により死亡した事例は4例発生している。

1997年8月15日 プラム麻里子(JWP)

1997年8月15日に広島市の広島県立総合体育館で行われたタッグマッチ(パートナーコマンド・ボリショイ、対戦相手尾崎魔弓・天野理恵子(OZアカデミー))で尾崎魔弓のライガーボムを受けてピンフォール負けした直後に意識不明の重体となり、救急車で病院に搬送された。開頭手術には成功したものの、翌日に容態が急変して急性硬膜下出血並びに脳挫傷により死去した。29歳であった。

プラム麻里子(プラムまりこ、1967年11月1日 - 1997年8月16日)は、日本の女子プロレスラーである。本名は梅田 麻里子(うめだ まりこ)。東京都大田区出身。

日本プロレス史上で初めて試合中にリング禍で死去した。

アイドル的な人気

1986年にジャパン女子プロレスの第一期生として入門。同年8月17日、後楽園ホールのユウ山崎戦でデビュー。その後1992年における同団体の分裂に伴い、JWP女子プロレスの旗揚げに参加した。

またキューティー鈴木とのタッグチーム、ファイティング・ドールズではアイドル的な人気も獲得していた。JWPに入団して以降は度重なる負傷によって欠場が多くなり、前座で若手を相手に試合をすることも多かった。

1997年8月15日、タッグマッチでプラム麻里子にライガーボムでピンフォール勝ちしたが、直後にプラムが意識不明の重体となり、翌日に死去した。

ジャパン女子時代からの同期かつ親友の死に精神的ショックもかなり大きかったという。

2006年のOZアカデミー団体化後初めて迎えた2007年8月の後楽園大会以降、プラムを忘れない様にと、プラムの名を冠した大会名「プラムの花咲くOZの国」を、プラムの命日前後に毎年開催させている。

獣神サンダー・ライガーが使用する技で、相手を落とす際にジャンプして自分の足を開脚し尻餅する形で着地、その時に同時に空中で開脚した脚を相手の腕に引っ掛ける。

リングの対角線上をランニングしてから使うこともあり、この場合は「ランニング・ライガーボム」あるいは「サンダー・ライガーボム」とも呼ばれる。使い手は多く、様々な名前で呼ばれている。

プラム麻里子が尾崎魔弓にこの技を受け、日本プロレス史上初の試合中の事故死を招いた。

2007年8月の後楽園大会以降、プラムを忘れない様にと、尾崎の同期であり没後10年となったプラム麻里子の名を冠した「プラムの花咲くOZの国」と命名。

以降、プラムの命日となる8月16日前後の後楽園大会に同じ大会名を付けるようになる。

1999年3月31日、門恵美子(アルシオン)

1999年3月31日、門恵美子(アルシオン)が福岡市での試合中に吉田万里子にキーロックをかけていた際、自身の体を持ち上げられてそのまま側頭部からマットに落とされて意識不明となり、開頭手術を受けたが、9日後の4月9日、急性硬膜下血腫及び脳挫傷のため死亡。

デビューからわずか1か月足らずだった。

門 恵美子(かど えみこ、1976年1月28日 - 1999年4月9日)は、日本の女子プロレスラーである。大阪府出身。

日本のプロレスラーが試合中の事故で死亡した事例は1997年のプラム麻里子以来2人目であった。

グラウンド状態で相手の片方の腕を「く」の字にして二の腕と手首のあたりを片足ではさみ、曲がった腕の間に自分の腕を通して固め、自分のいる方向に体重をかけて引っ張ることで肘関節を極める技。

腕挫十字固を狙った時に相手に腕をロックして防御された場合の返し技としても使用される。

2000年4月14日、福田雅一(新日本プロレス)

福田 雅一(ふくだ まさかず、1972年5月17日 - 2000年4月19日)は栃木県大田原市(旧那須郡黒羽町)出身の日本の男子プロレスラーである。最終所属は新日本プロレス。

2000年4月14日、宮城県気仙沼市での試合中に柴田勝頼のエルボーを受け意識不明の重体に陥り直ちに同市内の病院に運ばれたが、4月19日に急性硬膜下血腫のため死亡した。

男子レスラーでは史上初となった。

1999年10月シリーズの硬膜下血腫の後遺症か…

福田は1999年10月シリーズにて、硬膜下血腫のため約4か月間の欠場をしていた。それの後遺症が原因だと言われている。

この事故は当時のプロレス界に大きな衝撃を与え、特に小川戦後の去就が注目されていた橋本にも相当なショックを与えた。

また2000年7月に大仁田厚戦で現役復帰した長州力は入場の際に福田の遺影を脇に抱えており、福田の死が長州の心を動かしたことが伺える。

2000年4月14日、ヤング・ライオン杯公式戦。柴田の放ったダイビング・エルボーを受け損なった福田は、受身も取れず、そのまま痙攣を始める。

異常を察知した柴田は、すかさずフォールに抑えこみ、いちおう試合を成立、終了させた。

翌日の試合後、リングを指差し、「俺の居場所は、あそこしかねえんだよ!」と気丈に叫んだという。

倒れている相手に対し、肘を鍵型に曲げた状態で相手の上に倒れ込み、曲げた肘の先端部もしくはその少し下の腕の部分を相手の体(主に喉元や胸部)に落とす技(原則としてプロレスでは肘の先端部での攻撃は反則)。

昔からポピュラーな技で、使用者も多い。

2009年6月13日、三沢光晴(プロレスリング・ノア)

2009年6月13日、三沢光晴(プロレスリング・ノア代表取締役兼選手)が、広島市での試合中に齋藤彰俊のバックドロップを受けて頸髄離断を発症、心肺停止状態となり病院へ搬送されたが同日夜、死亡。

翌6月14日、広島県警広島中央署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断(けいずいりだん)であると発表した。

「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」

2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と語っている。

それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナで行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。46歳没。

2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と語っている。

三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「動けるか?」と問い掛けた際に、「動けない」と応じたのが最後の言葉となった。

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