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リンカーンの命じた残酷すぎる38人同時首つり処刑

国史上最大の絞首刑があった。この恐ろしい処刑を執行させたのは、かのアブラハム・リンカーンだ。

更新日: 2017年12月02日

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palezioさん

彼らはいかなる犯罪を犯したのでしょうか?

残虐さで非難されるイスラム国と、非難するアメリカ。しかし、アメリカ合衆国の歴史の始まりも、大きな残酷さによって血塗られています。

あまりにも残虐すぎた米国の処刑

この恐ろしい処刑を執行させたのは、奴隷解放宣言で知られる、かのアブラハム・リンカーンです。

彼は、国民に市民権を与えることで、南部との対立において政治的優位に立とうとしました。一方で、強烈な差別主義者でもあったのです。

「人民の人民による人民のための政治」

彼らの言う人民とは、アメリカ大陸への侵略を行い、彼らを支持する勢力のことだった。もともといた住民は、彼らの言いなりにならない限り、人民とはみなされなかったのです。

彼らが残酷な方法で殺害された理由は、とてつもなく理不尽なものだった。

武力によって結ばせた「条約」

ミネソタ準州内にある彼らの伝統的な狩場9600㎢を、166万5000ドルの一時金と引き換えに、これを合衆国へ譲渡し、ミネソタ川上流を挟み幅32km、長さ240kmの保留地に入る

出典「トラバース・ド・スー条約」「メンドータ条約」

ネイティブインディアンであったダコタ族は、アメリカ合衆国の軍事力に屈し、このような条約を受け入れさせられました。完全狩猟民族である彼らにとっては狩場を失うことは死を意味していました。

合衆国は代償として毎年「年金」(小麦粉などの食料)を配給すると約束しましたが、貨幣経済のない彼らの社会では166万5000ドルという一時金の金額になんの意味もありません。それはすぐに白人たちに巻き上げられていきました。

タテマエのために結ばれた条約、それさえも破られた

条約自体、理不尽なものでした。それだけでなく、結局、約束は守られなかったのです。白人の商人たちは彼らの弱みに付け込み、スー族に掛けで食糧を売り、代金は合衆国に払わせました。

インディアン管理官の年金支払いの遅れや、農業を始めたインディアンに優先的に食料を渡すといった不公平が続き、ダコタ族にますます飢えが拡がっていた。

自らワシントンDCに赴き訴えたインディアン達

1858年5月11日にミネソタが州に昇格したとき、リトルクロウ達数人の酋長たちは、ワシントンD.C.に赴き、条約に基づく正常な年金の支払いを要求しました。

そもそもの不平等条約でしたが、それさえも履行されなかったとき、それでもなおインディアンの酋長らは交渉という手段をとっていたのです。

しかしジェームズ・ブキャナン大統領は逆に、ミネソタ川に沿った彼らの保留地の北半分を没収し、スー族がパイプを作る伝統的な採石場があるミネソタ州パイプストーンの採石権まで奪いとりました。

こうして、インディアンの生活の糧が法の名のもとに奪われていったのです。

奪われ続けた営み

合衆国はスー族に割譲させた土地を、白人入植者のために街区と小区画に区分しました。これらの小区画で、白人は森や草原を取り払い、ダコタ族が行っていた狩り、釣り、および野生米の採集といった生活が不可能となりました。

白人入植者達が行う狩りによって、バッファロー、アカシカ、オジロジカおよびクマのような野生動物が著しく減りました。ダコタ族らスー族は動物を食用にしていただけでなく、その毛皮による白人交易業者との物々交換にも依存していましたが、これらの営みはことごとく失われていったのです。

写真は、白人たちが肥料を作るために集めたアメリカバイソンの頭蓋骨です。新参者は、持続性の全く無い無謀な狩猟を行うことでもインディアンの生活を破壊しました。

高まる不満

1862年8月16日、ダコタ族に対する条約の年金支払金がセントポールに到着し、翌日リッジリー砦に移されました。しかし、それは暴動を防ぐには遅すぎたのです。

やつらが飢えているんなら、草か自分の糞でも食わせておけばいいだろう。

ダコタ族の酋長たちにダコタ族を援助してくれるよう求められた交易業者の代表であるアンドリュー・ミリッツの回答は酷いものでした。会合は怒号の中に紛糾し、交渉は決裂した。先の条約から11年、たまりにたまったスー族の不満はもはや爆発寸前でした。

合衆国が南北戦争の渦中にあったために、条約で補償された年金の支払はやがて止まってしまった。合衆国はスー族に農業を強制したが、ミネソタ川渓谷の土地の大半は耕作に適しておらず、交易だけではもはやダコタ族の社会を支えられなかった。

新参の白人入植者に土地を奪われ、年金(食糧)の支払いはなく、条約は破られ、さらに天候不順による穀物の不作に続く食糧不足と飢饉で、大切な種牛まで食いつぶすに至り、ダコタ族の間には大きな不満が高まっていきました。

アメリカの言うダコタ戦争は、「戦争」と名は付いていますが、実情は飢餓状態となった少数民族の「暴動」であり、暴動のその結果は、米国処刑史に残る38名のダコタ族の一斉絞首刑と、ミネソタからのダコタ族の追放という、インディアンに対する合衆国のお定まりの民族浄化となったのです。西部大平原における「インディアン戦争」の先駆けとされています。

行われた公開処刑は悲惨なものとなった

1862年12月26日、クリスマスの翌日に、ミネソタ州マンカトのスネリング砦でダコタ族死刑囚たちの一斉絞首刑が行われました。

前代未聞の38人同時処刑は、インディアンたちの絞首の様子が四方から見ることが出来る特別誂えの絞首刑台で行われました。一斉処刑の際には、興奮した白人群衆が処刑場に詰めかけ、軍によって公開規制が行われたほどだったと言われています。

「38人の囚人に対する一斉死刑執行」は、現在に至るまで、アメリカ史の中でも最大の集団処刑記録となっています。

インディアンの酋長は、合議制の中の議長の役割を担います。全員の総意が一致するまで、議論を尽くし、決定させるのが酋長の立場です。

アメリカ合衆国は、彼らをヨーロッパ風の「代表者」として扱い、「責任」を負わせたのです。

白人たちがやってくるにつれ、インディアンたちはいなくなる。

出典処刑を待つ間に汽車の汽笛を聞いたシャコビー酋長は、この言葉を残した。

一斉絞首刑の瞬間の、見物人たちの反応について次のような証言が残っている。

「床が落ちると、兵士や一般市民の間からは、低い歓喜の声がいつまでも漏れていた。」

連隊付き軍医がインディアン囚人の死亡宣告を行い、インディアンの死体は川堤の砂地に掘られた壕にまとめて放り込まれ埋葬された。しかし埋葬前に「シェアダウン博士」という渾名の素性の知れない者がインディアンの皮を剥いだといわれている。その皮を入れた小さな箱が、後にマンカトで売られたという。

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