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【衝撃事件】三毛別羆事件のまとめ【日本最大の獣害】

100年前の北海道で起こった、日本最大の獣害事件。野生の羆の恐ろしさと、人間の無力ぶりが伺える。

更新日: 2014年01月20日

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netkaseguyoさん

■事件の大筋

三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年(大正4年)12月9日 - 12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村(現:苫前町古丹別)三毛別(現:三渓)六線沢で発生した、日本史上最大規模の獣害(じゅうがい)事件。羆(ヒグマ)が数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事件は終息した。

■事件の経緯・12月9日

昼、太田宅に同居していた樵業の長松要吉(当時59歳)が、昼食をとるため帰宅すると子供が囲炉裏の前で座っていた。様子がおかしいと覗き込むと、子供の喉がかきむしられ側頭部には親指大の噛まれた痕があり即死していた。改めて見回すと家中は荒れ放題で、一見して巨大な羆の仕業だと分かった。

長松要吉の通称はオド。亡くなっていた子供の名前は幹雄。

それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた。

太田家当主の内縁の妻がマユ

■事件の経緯・12月10日

残る男性達は、ヒグマを討伐してマユの亡骸を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した。馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは捜索隊に襲いかかった。鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けたが、手入れが行き届いていなかったため、発砲できたのはたった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。

改めて周囲を捜索した彼らはトドマツの根元に小枝が重ねられている血に染まった雪の一画と、その下から黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見した。
このヒグマは今や人間の肉の味を覚えてしまった。マユの亡骸を雪に隠そうとしたのは冬を乗り切りため保存食にするための行動だった。

その夜、太田宅で御通夜が営まれた。すると午後8時30分頃、突然居間の壁が崩れ落ちて羆が乱入してきた。銃を持っていた男が、恐怖で震える手で発砲。また、別の男は缶を鳴らして羆を退散させた。だが、無残にも棺桶からマユの遺体の一部が飛び出して居間に転がっていた。

その20分後、明景の妻ヤヨ(当時34歳)は、1歳の四男をおんぶしながら山狩り隊の夜食を作っていた、まさにこの時、羆が乱入してきた。逃げまどうヤヨの背後から四男の頭部をひと噛みで殺害。更にヤヨと8歳になる次男も同様に殺害。明景宅に非難していた斉藤石五郎の妻タケ(当時34歳)と3歳になる四男も同様に即死。6歳の三男は救出されたものの、その後死亡。タケは身重であったが、腹も切り裂かれて胎児が飛び出した。暫くは息をしていたが、その後死亡。留守役の長松も噛まれて瀕死の重傷を負った。これで、胎児を入れると7人が羆によって殺害された。

■事件の経緯・12月12日

六線沢ヒグマ出没の連絡は北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長の菅 貢(階級は警部)に討伐隊の組織が指示された。一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマの糞を発見した。それを検分し中から人骨や髪の毛また未消化の人肉を見つけると、医師は戦慄に立ちすくんだ。

しかし近隣の青年団や消防団を動員して行われた山狩りは一向に成果を修めることが出来ず、苦慮した菅貢警部は罪悪感を押し殺して犠牲者の遺体を囮にして羆をおびき寄せるという作戦を決行する。(羆は獲物を取り戻そうとする習性がある)ところがこの奇策も野生の勘からか直前で羆は引きかえしてしまい作戦は失敗に終わった。

■事件の経緯・12月14日

警察隊は羆のものと思われる血痕を追って雪が積もった森の中へ入っていった。だが、マタギの山本はこれだけ多くの人間がいたら気配を察知して現れないと言って、単独で風下から捜索。すると、大木で体を休めていた羆を発見。直ちに、山本のライフルから鋭い銃声が響いた。弾は羆の心臓に命中。それでも、羆は山本に突進しようとした矢先、山本の第二発目の弾丸が羆の頭部を打ち抜いた。さすがの羆もよろよろとしながら倒れて絶命した。

■事件の記録

事件が新聞紙上で報道されたのは、12月13日付けの『北海タイムス』と『小樽新聞』が最も早く、『函館毎日新聞』が14日、『函館新聞』は19日になってやっと一報を掲載した。このような遅れは、通信手段が確立していない上に事件が山奥の小村だったことも災いした。ただし『北海タイムス』は13日から25日まで毎日記事を掲載し、情報が入らない日は過去の熊害事件を「熊物語り」と題して報じた。『小樽新聞』も断続的に1月28日まで事件記事を載せ、山本兵吉へのインタビューも行った。

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