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【竹山と】昭和天皇の和むエピソードまとめ【呼んでくれ】

天皇陛下の人間味あふれるほんわかエピソードをまとめました。

更新日: 2014年08月04日

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muremureさん

昭和天皇とは

昭和天皇は、日本の第124代天皇(在位:1926年12月25日 - 1989年1月7日)である。
歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(宝算87)であった。

終戦後、マッカーサーに会った昭和天皇は、こう語ったと伝えられている。

「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います。」

国民を愛した昭和天皇の、愛すべきエピソードをまとめました。

皇太子時代

5歳の頃正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、悪酔いして寝正月を過ごす破目になり、以後だめになったと伝わっている。

学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えた

「たか」は養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)のことです。

学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、
御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした。(この提案に学友が従ったかどうかは不明。)

ちなみに御印は「若竹」

皇太子時代にイギリスを訪問したとき、ロンドンの地下鉄に初めて乗車した。
このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり
(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、
とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。

天皇時代(戦前・戦中)

アドルフ・ヒトラーから当時ダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツの770K(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。

せっかくもらったのに・・・(´・ω・`)

天皇時代(戦後)

巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。

アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。

これは和みでなく、カッコイイエピソードですね。

皇居の畑で芋掘りをしていた時、日本では滅多に見ることのできない珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。
事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。
この時のヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。

戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。ただしこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。

「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」とのこと。この「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、国民に広く親しまれた。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。

埼玉県立さきたま史跡の博物館を行幸したとき、ガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたきその様子を撮影しようとしたところ、「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。

ある田舎の小学校に天皇陛下がおみえになる、ということで何とかおもてなしをしなきゃ、と思いながらも食糧に乏しく、やむをえず、ふかしたさつまいもを恐る恐る出したところ、
陛下が思いのほかこれを気に入られた。

後に陛下が皇居で「さつまいもが食べたい」と言われたところ、コックさんが「皮がついたままお出しすることはできない」と思い、皮を全部むいてお出ししたところ、陛下はションボリして「皮がおいしいのに…」と言われたとさ。

晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。ところが天皇は「むしろ楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えた

スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった」と発言した。

海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。(中略)
釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(後に「あまり美味しい物ではなかった」と述べた)という。

帝は毒に配慮してフグを食す事を禁止されていたが、「フグを食べてみたい」と側近に言ってみるのが好きだった。
侍医などは、帝の「なぜ、ダメなのか」という下問に答えられず、困ったりしていた。
しかし、これは帝の好きな冗談らしく、帝自身、フグは食べられ無いと言う事は理解していたらしい。

大の相撲好きで有名だが、贔屓の力士については質問されても決して明かさなかった。
贔屓の力士を言えば世間が騒ぎ色々な人に迷惑がかかると配慮した。
でも、実は蔵間のファンだったと推定されている。

見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。

昭和天皇の謁見を受けたアメリカの「フォード」元大統領は、体の震えが止まらなかったと回想している

ご家族とのエピソード

香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた(中略)。
夫婦仲は円満であった。結婚当初から、当時の男女として珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。

皇の手の爪を切るのは、皇后が行っていた。
侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した

はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と拒否した。
側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返した

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