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【閲覧注意】1970年代F1の死亡事故まとめ

『毎年25人中2人が死ぬ』と言われた 映画「ラッシュ/プライドと友情」の舞台となった1970年代のF1において、実際に発生した死亡事故をまとめました。

更新日: 2015年06月24日

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ik78さん

ピアス・カレッジ

1970年F1第5戦ザンドフォールトで行われたオランダGPの決勝23周目、ピアス・カレッジの駆るデ・トマソ・フォードが『イースト・トンネル』手前の右コーナーでスピン。ガードレールを突き破ってトンネルの欄干に衝突した。マシンは大破し炎上し、カレッジは即死だった。

ヨッペン・リント

1970年F1第10戦モンツァ・サーキットで行われたイタリアGPの土曜日フリー走行、ヨッペン・リントの駆るロータス72・フォードが最終コーナー『パラボリカ』のブレーキングで突然左方向にコントロールを失い、ガードレールに激突した。リントは体を強く打ちまもなく死亡した。

リントは、シートベルトで股を固定するとかえって危険であると考え、腰から上のベルトのみを固定していた。そのため、マシンに身体が十分に固定されておらず、事故の衝撃で身体が前方向に動いてしまいダメージが大きくなってしまったと考えられている。また、事故の原因はブレーキのハーフシャフトの故障であった。

リントは、9戦5勝の圧倒的な強さでポイントランキング首位であった。リントの死後、ポイントを上回る者は出ず、リントにとって最初で最期のチャンピオン獲得となった。

ジョー・シフェール

1971年、イギリスのブランズハッチで開催されたノンタイトル戦の決勝15周目、ジョー・シフェールの駆るBRM P160が、サスペンションの故障からコントロールを失い土手に衝突。横転・炎上した。足を骨折し車内に取り残されたシフェールは、火災の煙を吸い込んだことにより亡くなった。
この事故がきっかけとなり、マシン内への消火装置の搭載が義務付けられた。

ロジャー・ウィリアムソン

1973年第10戦ザンドフォールトで行われたオランダGPの決勝8周目、ロジャー・ウィリアムソンの駆るマーチ731・フォードがパンクからコントロールを失いクラッシュし横転・炎上。ウィリアムソンは炎上する車内に取り残されてしまった。親友のデビッド・パーレイがレースを捨てて救助に向かうが僅かな消火器とマーシャルでは救助は叶わず、ウィリアムソンは焼死してしまった。

ウィリアムソンのマシンは事故から8分後に到着した消防車によって消し止められた。消火の遅さや事故が発生してもレースを中断しなかったレース主催者に大きな非難の声が上がった。

フランソワ・セベール

1973年最終戦ワトキンスグレンで開催されたアメリカGPの予選中、フランソワ・セベールの駆るティレル006・フォードがオーバースピードからコントロールを失いガードレールに突き刺さった。運悪く事故の衝撃でめくれ上がったガードレールがセベールの体とともにマシンを縦に引き裂く形になってしまい、セベールは即死だった。事故現場を目撃したジョディー・シェクターはあまりの光景に涙を流した。後日「まるで屠殺場のようであった」と語っている。
セベールのチームメートで73年のチャンピオンであるジャッキー・スチュワートは、愛弟子の事故にショックを受けレースから引退した。

ピーター・レブソン

1974年開幕戦を前に南アフリカのキャラミで行われた合同テスト中、ピーター・レブソンの駆るシャドウDN3・フォードのフロントサスペンションが故障し、第2コーナーのガードレールに衝突し炎上した。テストに参加していたドライバー達に救出されたが、まもなく亡くなった。

ヘルムート・コイニグ

1974年最終戦ワトキンスグレンで開催されたアメリカGPの決勝10周目のチュート・カーブで、ヘルムート・コイニグの駆るサーティースTS16・フォードにサスペンショントラブルが発生。そのままガードレールに直進し、マシンはガードレールの最下段を突き破って停止した。ガードレールを突き破った際にマシン上部もろとも首が切断されてしまい即死だった。
ガードレールの構造上の欠陥によりこのような悲劇が起きたと考えられている。

マーク・ダナヒュー

1975年第12戦エステルライヒリンクで開催されたオーストリアGPの予選中、マーク・ダナヒューの駆るマーチ751・フォードがタイヤの空気漏れからコントロールを失い、広告板の支柱に激突した。事故直後ダナヒューには意識があったが、ヘリコプターでの搬送で脳出血が悪化し3日後に死亡した。また、この事故でマシンの破片が当たったマーシャル1名が亡くなっている。

トム・プライス

1977年第3戦キャラミで開催された南アフリカGPの決勝22周目、コース最後の上り勾配の高速右コーナーのアウト側にトラブルを抱えたマシンがストップ。消火のためレース最中のコースをマーシャルが横断し、1人がトム・プライスの駆るシャドウDN8・フォードに轢かれ即死。プライスもマーシャルの持っていた消火器が頭を直撃し亡くなった。プライスのマシンはアクセルが踏みっぱなしになっており、意識のないプライスを乗せたままホームストレートを走りぬけ、1コーナーでジャック・ラフィットの接触してようやく止まった。

1977年日本GP

1977年最終戦富士スピードウェイで行われた日本GPの6周目、ロニー・ピーターソンの駆るティレルP34・フォードにジル・ビルヌーブが駆るフェラーリ312T2が追突。マシンが宙を舞いコース外に着地した。着地場所は危険な関係者以外立入禁止区域であったが、事故当時300人ほどの観客と静止する警備員10人が立ち入っており、結果的に、観客1名、警備員1名が死亡し、7名が怪我を負った。

ロニー・ピーターソン

1978年第14戦モンツァで開催されたイタリアGPの決勝レースのスタートで多重クラッシュが発生。ポイントリーダーのロニー・ピーターソンが駆るロータス78・フォードも巻き込まれた。ピーターソンは両足を骨折し病院に搬送されたが、命に別条はないと見られていた。しかし、事故の翌日、容態が急変し死亡した。死因はゴッ説によっておきた脂肪塞栓症だった。
この事故では、ヴィットリオ・ブランビッラも頭を強く打ち意識不明に陥ったが、こちらは回復し翌年のF1に復帰している。

死亡事故が続いた時代を受けて、F1はどう変わったのか?

1978年より、シド・ワトキンス博士がF1公式ドクターに就任し医療面での充実が図られた。

出典tut-f.com

マシン面でも、1980年代に入り頑丈なカーボンモノコックが普及することにより、70年代までに比べ格段に安全性が向上した。また、FIAも安全性確保のための規則変更を適宜行っている。

サーキット面でも、ガードレール以外の防護壁が登場し、タイヤバリアやコンクリートウォールなど場所に合わせた最適な防護壁を設置している。また、危険性の高いコーナーのランオフエリア拡張やシケイン追加での速度抑制などの安全対策も行われている。

レース運営面でも、重大事故発生時の赤旗中断やセーフティーカー導入での安全な事故処理などがおこなわれるようになった。

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