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剣豪 ~エピソードで見る武~ 壱

頻発する凶悪犯罪、緊迫化する国際情勢……こんな時代だからこそ、「暴力」と「武」の違いについて考えてみませんか。日本が誇る武の世界、中でも剣の道を生きたモノノフ達の生き様を、史実・伝説・創作を問わず印象的なエピソードでまとめてゆきます。※ 第二弾を開始しました!

更新日: 2016年04月08日

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父親は塚原卜伝の弟子で、足利義輝・北畠具教など、天下に5〜6人もいないほどの兵法家です。その全てを弥四郎は相伝しています。

当時「将軍家御流儀」として隆盛を極めつつあった柳生新陰流の中心人物である柳生宗矩が、弥四郎の父である雲林院松軒のことを評した言葉。弥四郎の父は戦国時代の代表的な剣豪である塚原卜伝の高名な弟子でした。更にその技術や知識を弥四郎に託したのです。

一時期、柳生宗矩のもとにも身を寄せており、柳生新影流をも学んでいたようである。1621(元和7)年、宗矩の弟子村田弥三より、新影流の目録等を授けられている。

戦国時代を代表する剣術「新当流」のみならず、江戸時代の一流剣術となっていく「新陰流」をも修めた弥四郎。その剣の冴えが窺い知れますね。

忠利は、光成の召し抱えの意向を示すが、何度も断られ、

忠利=当時の熊本藩主である細川忠利。武芸を愛好し、多くの武芸者たちと交流があった。自身も新陰流を修行しており、柳生宗矩から新陰流の秘伝を託されている。光成=雲林院弥四郎の諱(いみな)。沢山の武芸者を見てきて自分自身剣術の心得がある忠利の目にも、弥四郎の腕は魅力的なものとして映っていました。しかしその誘いを弥四郎は何度も断ったというのです。武芸者の多くが剣術修行のゴールとして大名家や各藩への任官を目指していたのに対し、弥四郎は剣の道のみに殉じた人物であることがこの出来事から推察されます。

晩年を熊本で過ごした高名な剣豪……と言えば宮本武蔵もそうでした。彼もまた忠利からの誘いを受け、仕官こそしませんでしたが、客分、相談役的な立場として屋敷を与えられていました。

熊本での武蔵の待遇は、士官でもなく役職もない客人扱い。熊本城内の千葉城の一角にある屋敷を与えられた。

一方では沢山の伝説的エピソードを残すが「史実」として明らかなところの少ない武蔵。もう一方では、剣豪としての華やかなエピソードは少ないが「史実」として他の剣豪からも評価されていた弥四郎。対照的でありながら、晩年は似た境遇を過ごした二人の剣術家。彼らが生きた時代の100年後に描かれた空想上の「対決」は両者の生き方や思想の衝突でもあったのかもしれません。

鐘捲自斎(かねまき じさい)

流派:中条流(富田流)→鐘捲流(外他流とも)
生没:不詳

史料に乏しく、その実像はよくわかっていません。また鐘捲流の伝承者はすべてを伝えぬまま第二次大戦で戦没してしまったため、現在は一部(抜刀術)のみが残存している状況です……

■ 謎の多さも鐘巻流の教え? ■
鐘巻自斎の経歴が謎に包まれているのは、この剣豪が考えた「剣術の在るべき姿」に原因があるのかもしれません。

そもそも鐘巻自斎という剣豪の実力はいかほどだったのか。

、富田流の名人富田治部左衛門(富田景政)の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。

富田流を学んでいた頃から、その才能は知れ渡っていました。

富田流は小太刀を得意としているが、自斎は小太刀の技から入り、中太刀に有利な技を案出したという。

出典日本剣豪100人伝

学んだ技のみならず、そこから新たな技術を編み出す才覚。

自身の剣才は勿論のこと、弟子を指導する能力にも長けていたらしく、現代剣道の源流でもある一刀流の開祖・伊藤一刀斎を育てています。

高上金剛刀を極意とし英名を走せていた中条流の達人鐘捲自斎通宗を江戸に訪ね、就いて自斎から中条流の小太刀や自斎の工夫になる中太刀を学んだ。弥五郎(一刀斎)は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので(中略)自斎は深く感心して自流の極意、奥秘の刀たる妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五点を悉く弥五郎に授けた

出典一刀流極意

弥五郎=後の一刀斎。鐘巻自斎が弟子に授けた奥義の命名には仏教などの見識が感じられます。剣術のみならず教養もあったことが思い知らされます。

当時から多才で、優秀な弟子にも恵まれた自斎。そんな人物が何故「謎」に包まれているのか。そのヒントは、鐘捲流の理念にありました。それは、文字通り門外不出の剣術だったのです。

徳川泰平の世に多くの流派が、時の推移と共に変貌を続けた中(中略)少数の門弟に極秘に伝授され、技名を口外しただけで同門の手により暗殺されたほどの厳しい掟をもって幕末に及んだ。

集団指導は秘密漏洩のほか、大量生産に通じ、画一主義に堕し、機微を教えることが不可能となる、これがその理由です。

門外不出の理由。

弟子の一刀斎も謎の多い人物ですが、その人生もまた、師である自斎の理念に影響されたものだったのかもしれませんね。

黒河内伝五郎(くろこうち でんごろう)

流派:神夢想無楽流
生没:享和三年(1803)~慶応四年(1868)

2013年の大河ドラマでは六平直政さんが演じていましたが、伝五郎は背が低く、色白で、女性のような容姿だったと伝えられています……。

■ 武芸百般を体現した天才 ■
剣豪、といっても剣のみを修行した人はむしろ少なく、対処法を学ぶため、咄嗟の護身のため、様々な理由から幾つかの武芸を学ぶのが普通でした。しかし伝五郎の場合、それらは余技に留まらず、すべてが師範クラスの腕前でした。

黒河内治助兼博に神夢想無楽流の居合術を学んでその養子となって、黒河内伝五郎兼規と名乗り、指南役となって藩士の指導にあたった。

医師の家に生まれながらも、居合に開眼、その技によって指南役にまで至りました。

居合術に於いては、自ら箸を空中に投げて、その落ちる前に刀を抜いて截つことは自在であった。

出典会津剣道誌

まさに神技。

一寸ばかりの小針数十本をふくみ、一丈ばかり隔てた障子に向かって針を吹くと、次々と針が一つの穴を通った

出典会津剣道誌

含み針の妙技。

手裏剣に於いても小銭を柱に掛け、一丈八尺を隔ててこれを打って一つも過たず、真中の方孔を射たという。

出典会津剣道誌

一丈八尺=約5.5メートル。

「柔術は技芸の元素なり、これを窮すれば他の芸術は推窮するに難からず」と門弟に教えていた。

出典会津剣道誌

後に合気柔術系武術のキーパーソンとなる武田惣角。その母が実は黒河内伝五郎の娘なのです。

他にも、槍術、棒術、弓術、馬術、鎖鎌術、薙刀術などを使いこなしたといいます。武芸百般とはまさにこの人のためにあるような言葉。

武器格闘ゲーム『サムライスピリッツ』シリーズに登場した黒河内夢路。伝五郎はこの人のモチーフ……かもしれません。

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