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イランとアメリカの仲が悪い理由の分かりやすいまとめ

イランとアメリカがやたらと仲が悪い理由をまとめてみました。

更新日: 2017年12月01日

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palezioさん

実は、アメリカは第二次世界大戦後、イランの民主化を何度も邪魔してきた。

イランの第二次世界大戦;イギリスとソ連のイラン進駐

イランは、ソビエト連邦と、英国領インドに挟まれていたが、石油利権を英国にとられた状態にあった。そのため、ソ連側でも英国側でもない勢力を取り込もうとしていた。米国との交渉を試みたが失敗したため、ナチスドイツともコンタクトするなど外交を展開した。

第二次大戦中、イランは中立の立場をとり、イラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否するなど、連合国側から見れば協力的でない態度をとった。連合国のイギリスとソビエト連邦は、1941年8月25日に鉄道を含む補給路と、石油などの豊富な資源の確保のためにイランへ侵攻した。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の一国でイランとの関係も深かったアメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求めたものの拒否され、やがて、イラン軍は制圧されることになる。

その後イランは両国による共同進駐を受け、両国の圧力を受けて退位した父(親ナチスとみなされていた)に代わり、息子のモハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝に即位した。それまで軍を利用した独裁制を敷いていた父レザーシャーが倒れたことにより、民主主義が復活、禁止されていた政党活動や労働組合結成などが認められるようになり,抑圧されていたイスラム教も自由となった。

第二次世界大戦後、アングロ・イラニアン石油会社(現在のBPの一部)が、イランの石油利権を事実上独占していた。同社は20世紀初に英国によって設立され、英国85%・イラン15%の割合で利権を分割する協定を結んでいた。それ自体不公平な契約でしたが、さらに同社がイラン政府に財務報告を提出していなかったことが明かになると、イラン国民の財産の不適切な独占とみなされるようになってくる。

アングロ・イラニアン石油国有化

そのような背景のもと、選挙で選ばれたのが石油生産の国有化案を訴えていたモハンマド・モサッデグだった。

すでにイランは議会制民主主義の国だった。度重なる要請にもかかわらず、財務報告をしないアングロイラニアン石油に対し、イラン議会は満場一致で、アングロイラニアン石油を国有化すると決定した。

石油権益を失った西側諸国は、イラン政府をこぞって批判した。

西側諸国による政権転覆工作

アメリカ政府、イギリス政府が画策したCIAによる皇帝派クーデター「アジャックス作戦」を展開。これはテヘランの合衆国大使館の指揮によるもので、反政府勢力を支援し、民主化革命の前の独裁者であったシャーを帰国させてしまうというものだった。

これによりモサッデグ首相をはじめとする反植民地主義の政権のメンバーは逮捕されてしまう。そして、モサッデグ元首相はその後、軟禁中に死亡した。

1953年イランクーデターが成功。政府に対するシャーの権限を制約する憲法上の規定を撤廃。シャーはアメリカの支援下で専制君主として復帰することになった。米国は、民主主義を破壊し、王政を復活させることに成功したのだ。

傀儡政権の樹立

出典labaq.com

米国傀儡政権による独裁時代、イランではミニスカートを履く女性の姿もあった。

後に、モサッデグ政権を崩壊させた軍事クーデターは、CIAにより、アメリカの外交政策として実行されたことがアメリカの公文書から明らかになった。

アメリカは、民主的なイランを破壊し、王国に戻したのです。それが石油利権をイラン国民から米国と英国に取り戻すための手段でした。

モハンマド・レザー・シャーはその支配において、合衆国から多大な支援を受け、アメリカから大量の兵器を購入した。シャー自身もしばしばホワイトハウスを公式訪問し、歴代大統領と謁見した。

シャーとワシントンの緊密な関係、大胆かつ急速な西洋化政策は、イラン人の一部、特に強硬なイスラーム保守層の慷慨を招くこととなる。イランの石油権益のほとんどを流出させ、しかもイスラム文化とは相容れないアメリカ文化をイランに持ち込んだためだ。

結果的に急速に貧富の差が拡大し、国家への不満が高まっていきます。この経験から、中東におけるイスラム文化の破壊に対する敵対心が芽生えたのです。

再び民衆が立ち上がった

パフラヴィー皇帝は自分の意向に反対する人々を秘密警察によって弾圧し、近代化革命の名の下、イスラム教勢力を弾圧し排除していた。やがて、民衆の怒りは蓄積し、米国が作った傀儡政権は再び民衆の手に戻されることになる。これが現在まで続くイラン・イスラム革命であり、現在まで続くイランのスタート地点だ。

結局、国民の中から湧き上がったデモにはじまる革命により、再びシャーが国外逃亡、「休暇のためにイランを一時的に去る」と称してシャーが政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近とともにエジプトに亡命。イランは民主化のプロセスを始めることになった。

新政権は米国傀儡時代の不公平条約の撤廃や、シャーのイランへの送還を米国に求めた。

不平等条約の撤廃を求めたイランに対し、在米資産の差し押さえ

しかし、米国はこれを拒否し、さらにイランの在米資産を差し押さえる行動にでる。このため、現在でもイランと米国は非常に険悪なのです。しかし、そもそもイランを一方的に奪おうとしたのは米国だったのです。米国はシャーを利用してイラン国民の財産を米国に持ち出し、その返却を拒み続けた。

国民の支持を集めたホメイニ

イラクを支援したアメリカ

イラン・イスラム革命によりイランの支配を失った米国は、イラクへの武器供与を開始します。これがその後のイラン・イラク戦争へと繋がっていきました。

まとめ: なぜアメリカとイランは険悪なのか?

そもそも、イラン国内の石油権益についての不平等協定をイランとイギリスが結ばされていた。その不平等な条件の中で、さらに石油会社がイラン政府への財務申告を怠っていたことが問題視され、たびたび議会による催促が行われたものの、これが無視されたため、国民の支持をうけて政権を獲得したモサッデグ政権が、イランの石油を国有化した。

これに対して、英国は米国CIAとの共同作戦を展開し、クーデターを起こしてモサッデグを失脚させ、国外逃亡していた皇帝をイランに復帰させて独裁的な王政を敷かせた。一時的に米国よりとなったイランだったが、極端な文化破壊や欧米への資本流出への反発から、ホメイニらを中心とするイラン・イスラム革命が勃発、再び皇帝が国外逃亡してしまう。

これによって、イランは議会制民主主義へと復帰した。新政権は米国に不平等条約の撤廃と、シャーが不当に米国に持ち出した資産の返却を求めたが、米国はこれに応じず、拒み続けるとともに、隣国イラクへ武器を供給して、イラン・イラク戦争へと誘導していった。

実は、もともとも発端となったアングロ・イラニアン石油会社は、英国のユダヤ人、ロスチャイルド系石油資本でありバルフォア宣言の受領で知られるように、ロスチャイルド男爵は、イスラエル建国の立役者でもあった。このようにして、当然のようにイスラエル、イギリス、アメリカがイランと対立するようになっていった。

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