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歴史で振り返る巨大津波の惨状 東日本大震災メモリアル3.11を忘れない

三陸に度々おそう津波。古くは1611年(江戸幕府が出来たばかり)の慶長津波、明治、昭和、チリ地震による大津波と年号が変わるごとにその名を残すほど津波に襲われる。その三陸の歴史を写真とともに振り返る

更新日: 2016年01月19日

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otatomokoさん

2004年12月、スマトラ沖で大地震が起き、巨大津波が発生しました。米ハーバード大学の調査によれば、地震のエネルギーは阪神大震災の約1600倍だったそうです。津波は震源の水深が深ければ深いほど速度が速くなり、水深4000mで時速700km、水深1000mで時速200-300kmにもなるんだとか。震源から8900km離れた南極の昭和基地でも73cmの津波が観測されたことから考えても、異常に巨大な津波でした。
 津波による死者は30万人説も流れ、伝染病などの二次被害を考えれば、観測史上、ダントツの惨事となってしまいました。

 ちなみに過去、死者が1万人を超えた津波は、以下の通りです。

 ●1771年4月 石垣島近海の地震による津波で1万2000人
 ●1792年5月 雲仙岳の噴火による津波で1万5000人
 ●1868年8月 チリ北部を震源とするアリカ地震の津波で2万人以上
 ●1883年8月 スマトラ島近くのクラカトア火山の噴火による津波で3万6000人
 ●1896年6月 明治三陸地震で2万2000人

 津波のことを英語でtsunamiというのは有名ですが、まさに日本は津波の被害に悩まされ続けてきました。
 上にあげた以外にも、明応7年(1498)、慶長9年(1605)、慶長16年(1611)の津波では5000人以上の死者が、宝永4年(1707)の津波は2万人以上、安政元年(1854)の津波も1万人以上の犠牲者(ただしいずれも正確な記録なし)といわれています。

 なかでも日本が大きな被害を受けたのは、2万2000人が亡くなった明治29年(1896年)の三陸沖地震によるものです。6月15日午後7時32分、釜石沖を震源とする地震が発生しました。マグニチュードは7.6。およそ30分後に三陸海岸を巨大津波が襲いました。岩手県綾里では波高が38.2mを観測しています。

【明治】

岩手県釜石市の大津波被災地の写真。
海岸から数百メートル離れたところに大型船が打ち上げられている様子は東日本大震災とよく似ている(石黒敬章氏所蔵)

岩手県釜石市で大きな土蔵が倒壊し、周辺のがれきを掘り起こす被災者。左奥には2階建て民家がかろうじて残っている(石黒敬章氏所蔵)

岩手県釜石市唐丹町の被災地。写真説明には「被害戸数371戸、死亡2135人」とあり、
1世帯6人とすれば、ほぼ全滅したといえる(石黒敬章氏所蔵)

1896年6月15日午後7時半すぎに三陸海岸沖で発生した。最大震度4程度だが津波は地震発生から約3分で三陸沿岸を襲い、最大38.2mに達したとされる。岩手県を中心に死者は2万人以上の犠牲者が出た。

この津波の様子を、当時の新聞はこう書いています。

《海上に異様な響き、たちまち丈余の怒濤
 宮城県志津川町被害の詳報 

 宮城県本吉郡志津川町にては、去る15日午後8時過ぎ、海上に轟然として砲発にてもしたらんごとき異様の響き聞こゆると、間もなく汽車の鉄道を軋るがごとき音轟きければ、皆々何事ならんと訝りつつある内、たちまち1丈(約3m)余の怒濤が逆巻きて咆哮し来たる勢いの凄じく、アナヤと驚く間もあらせず芝居小屋は巻き去られ、90余の漁戸は波底に埋没せらるると同時に、建家の倒潰する音、怒濤の激する響きは、老幼男女の悲鳴叫喚せる声に和して、沸くがごとく耳に徹して物凄きなんど云うばかりなかりしが、24、5分も立ちたらんと覚しき頃、潮水ようやく引き去りて、その跡を見れば悲惨の様はまた一入(ひとしお)にて、実に目も当てられざる状況なり。屍体のここかしこに三々伍々泥に埋まるあれば、重傷を負い泥に塗(まみ)れて呻吟するもあり。郡書記諏訪部勝治氏の住宅などは遠く田甫の中に流されて、その妻は嬰児(みどりご)を抱きたるまま無惨の死を遂げしも、同氏は2人の小供と抱き合うて2階に斃れ居りしが、時経てようやく人心地付きたりと云う。かかる有様なれば、満目ただ修羅場と云うの外なかなか筆紙に尽すべくもあらざる惨状なり》(明治29年6月19日 時事新報)
 
地元の小学校では、ちょうど祝賀会が行われていて、多くの児童が流されました。

岩手県・鍬ケ崎町(現在の宮古市)の遊廓街。津波発生は旧暦の端午の節句にあたり、左上の軒にはショウブとみられる飾りが写っている(盛岡地方気象台蔵)

岩手県・鍬ケ崎町(現在の宮古市)の倒壊した建物から遺体を収容する人々(右側)。右後方には打ち上げられた帆船のマストが見える(盛岡地方気象台蔵

被災地救援の任務を終えて記念撮影する日本赤十字社の看護師たち。日本赤十字社によると、外套と水筒をたすきに掛け、盛岡からわらじ履きで山越えをして現地に入ったという。右端は後に第1回ナイチンゲール記章を受章した萩原タケ(盛岡地方気象台蔵

海岸には犠牲者が死屍累々と並び、漂流した遺体を地引き網でかき集める事態となりました。
唐桑村で入浴中だった娘は、風呂桶が浮かび上がったため助かったなんていう話もありますが、三陸沿岸の村はほとんど全滅でした。

【昭和】

三陸では昭和8年3月3日にも釜石沖を震源とする地震が発生(マグニチュード8.3)、死者約3000人という惨事が起きています。

気象庁の資料によると昭和35年5月23日午前4時11分(日本時間)、南米チリ沖約100kmで発生した大地震による津波がまる一日経過した24日午前3時すぎ、まず高潮程度となって日本の太平洋沿岸に到達、午前4時30分頃上げ潮に伴い大津波と化して襲いかかり、三陸沿岸の各地に甚大な被害をもたらした。

宮城県気仙沼市港町付近 昭和35年5月24日

1960(昭和35)年チリ地震津波による高知県須崎市での河川遡上状況(撮影者:岡田春正氏、須崎市消防団資料より引用)

ハワイにも被害が及んだ

津波の語り部、田畑ヨシさん昭和と東日本大震災と2度の津波に遭遇

岩手県田老村(現・宮古市田老地区)に生まれる。幼少時から、かつて明治三陸地震の大津波を体験した祖父より、津波の恐ろしさを毎晩のように言い聞かされながら育った。身をもって津波の恐ろしさを知っていた祖父は、家族
1933年、本人が8歳のときに昭和三陸地震が発生。大津波が押し寄せる中、祖父の教え「命てんでんこ」が功を奏し、山の上に避難して生き延びた。周囲には同様に、彼女の祖父の教えにより生き延びたと語る人々が大勢いたことから、言い伝えによる教訓の重要さを認識する。
祖父の教えと自身の体験をもとに紙芝居「つなみ」を制作。

昭和三陸地震、東日本大震災と二回も遭遇する。
昭和の時、母親が逃げる最中に足を折り翌日病院に運んだが時既に遅く失血死。地震の紙芝居にも記してある。

2011年3月11日午後2時46分。宮城県沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。岩手県を始め東北の太平洋岸で大きな津波が観測され、岩手沿岸では入り江ごとに壊滅的な被害を受けた。 宮古市田老に住む津波の「語り部」田畑ヨシさん(86)「津波のときは一刻も早く高台に」 祖父から教わった言葉  命てんでんこ=自分の命は自分で守る ヨシさんは、今回の津波で高台にある妹の家に避難した。 ヨシさんは言う。「もうこの町には住みたくない。」「語り部としての役割は終わった。」しかし、「津波の恐ろしさは語り伝えていって欲しい。」ヨシさんの新たな願いである。 昭和と今回、二度も大津波を経験。

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