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【閲覧注意】世界史に残る10の最悪な独裁者たち【粛清せよ】

世界は独裁の魔の手から解放されたと誰もが、そう信じた。人類の背負った悪意とは、何処までに根深いものなのだろうか?

更新日: 2019年03月11日

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moratoriumさん

●アドルフ・ヒトラー

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は、オーストリア=ハンガリー帝国生まれのドイツの政治家、国家元首。指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。日本においてはヒットラーとも表記される。

第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年にはバイエルン州において、中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後合法的な選挙により勢力を拡大した。

1933年にはドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承し(総統)、特異な支配体制を築いた。この時期のドイツ国は一般的にナチス・ドイツと呼ばれる。

ヒトラーは人種主義的思想(ナチズム)に基づき、血統的に優秀なドイツ民族が世界を支配する運命を持つと主張し、ナチス時代のドイツでは強制的同一化や血統を汚すとされたユダヤ人や障害者を弾圧、抹殺する政策を行った。さらに「ドイツ民族を養うため、東方に『生存圏』が必要である」として、領土回復とさらなる拡張を主張した。それは軍事力による領土拡張政策につながり、1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。しかし連合軍の反撃を受け、包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したとされる。

●朱元璋

朱 元璋は、明の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれる。洪武帝は重農政策を打ち出し、大商人を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や銅銭・紙幣の発行、民間における銀の通貨としての使用を禁じた。一方で洪武13年(1380年)には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。

洪武14年(1381年)、文字の獄と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて薛祥ら功臣が殺され、かつて洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の「道」、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。

洪武15年(1382年)には「空印事件」(「空印の案」とも)と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙(空印)を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。鄭士利という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。

洪武18年(1385年)には郭桓の案が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明代には試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。

洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。皇太子に選ばれたのは長男の朱標であったが、朱標は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。

洪武8年(1375年)には劉基が中書左丞相の胡惟庸に毒殺された。廖永忠も殺されている。洪武13年(1380年)には、胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に宋濂も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。洪武17年(1384年)には李文忠が毒殺された。洪武18年(1385年)に徐達が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の洪武23年(1390年)、事件を再び蒸し返して李善長ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。

これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた洪武25年(1392年)、皇太子朱標が早世した。洪武帝は朱標の子の朱允炆を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。洪武26年(1393年)には藍玉が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは藍玉の獄と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。洪武27年(1394年)には穎国公の傅友徳と王弼が殺された。傅友徳についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。洪武28年(1395年)には宋国公の馮勝が殺された。洪武29年(1396年)には監察御史の王朴、洪武30年(1397年)には欧陽倫が殺された。

洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、洪武31年(1398年)に崩御した。享年71(満69歳没)。後を孫の朱允炆(建文帝)が継いだ。

●ポル・ポト

ポル・ポト(Pol Pot )は、カンボジアの政治家。民主カンプチア首相、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長。ポル・ポトは自身が国家から奨学金を得て留学したにもかかわらず反体制的運動に参加した経験から、自らの政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。

プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティとなり、医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。

やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者などは片っ端から収容所に送られ殺害された。また、無垢で知識が浅い子供が重用され、解放直後は14歳以下が国民の85%も占めていた。

ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を弾圧した。通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。更に国民は「旧人民」と「新人民」に区分され、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。「新人民」は、「サハコー」と呼ばれる生産共同体へ送り込まれ、劣悪な環境と過酷な強制労働に駆り出された。

彼らの監視に当てられたのは「旧人民」であり、密偵と称される集団はポル・ポトから「敵を探せ」と命じられていた。しかし、当初こそ特権的な暮らしを享受した「旧人民」も農村に人口が流入すると食糧不足により、「新人民」同様に働かされるようになったという。こうした過酷な労働と、飢餓、マラリアの蔓延などにより多くの者が生命を落とした。

カンボジアでは伝統的に上座部仏教が信仰されてきたが、仏教もまた弾圧の対象とされ、多くの僧侶が強制的に還俗させられ、寺院が破壊された。ポル・ポト政権下において、仏教は壊滅的な打撃を受けた。

●ヨシフ・スターリン

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンは、ソビエト連邦の政治家、軍人。同国の第2代最高指導者。1936年、スターリンは1936年のソビエト社会主義共和国連邦憲法、いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則のもと、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた。そして、「労働者の利益に従って」という条件のもと、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初だった。

だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。もっとも当時それ自体は珍しい事ではないが、ソ連の場合、最初の選挙で議員の一人に19歳の少女が選ばれるなどエンターテイメント的な宣伝が行われ、有権者の千人に一人は候補者名を塗り潰し反ソ・反選挙的態度を見せるなどの国内の反感も受けていた。

ウクライナで発生した大飢饉ホロドモールは、ときおり「ウクライナ人の大量殺人」と呼ばれる。この飢饉はソ連政府による企みであることを示唆しており、とくに政治的な要因と社会的な存在物としてウクライナ国家を破壊するためにウクライナ人が標的にされた。一方で、歴史家たちは26の国々が公式に認めたこの飢饉がジェノサイド条約に該当するホロドモールへと至る政策であろうとなかろうと、異議を唱え続けている。

スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土に亘って模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動」と見なされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDのもとに置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった。

「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年におこなった秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。

●フランソワ・デュヴァリエ

フランソワ・デュヴァリエはハイチの大統領。大統領就任以前は疫病への取り組みを通じて高い評価を得たことで、「パパ・ドク」という愛称で呼ばれた。さらに1950年の軍事クーデターを鎮め、ポピュリズムとブラックナショナリズムを背景にして大統領に就任した。

デュヴァリエが政権を握ってまもなく、ハイチは北半球で最悪の圧政がしかれている国のひとつだという告発がなされた。じっさい国内で政敵に対してとられていた手法は粛正と追放であり、その犠牲者はおよそ30,000人にのぼるという推計がある。

徐々に独裁色を強めて軍の指導者を次々に失脚させ軍を分断、教会から外国人司祭を追放してアフリカ色を強め教会からは破門された。後に法王庁と和解し不在の聖職者を任命する権限を与えられ自分の息のかかったハイチ人聖職者を任命し国内の教会を勢力下におく。

また、トントン・マクートを結成して社会の隅々まで潜入させ、反対政党を全て非合法化し、批判する人間を逮捕・処刑した。高度な教育を受けたハイチ人たちは、ニューヨーク市やマイアミ、フランス語の通じるモントリオール、パリ、アフリカ諸国へと列をなして逃げだし、もはや医者や教師はハイチから姿を消してしまっていた。こうした専門的な技能を身につけた知識人たちの中には国連の要職につき、象牙海岸やコンゴといった新たに独立した国々の発展をたすける仕事についたものもいた。だが当のハイチはいまだにこの頭脳流出から立ち直っていない。

そうしたなかでも自らに対する個人崇拝を強め、自分を魔術師と宣伝し国民の前に現れるときにはブードゥー教の神の一人をイメージした扮装で登場し、宗教を民衆掌握のために利用した。1963年には憲法を停止し、翌1964年から終身大統領になりハイチに君臨する。支援を取り付けたアメリカの経済援助もデュヴァリエ一族とその部下の懐に納まり国営企業や輸入による利益すら彼の私財となり、ハイチ社会は汚職と収賄が横行した。国内はそれなりに安定はしていたものの経済は停滞し国民は貧困に苦しんだ。

デュヴァリエは農民から土地を取りあげ自らが組織した民兵たちに割り当てたが、それはそもそも表向きには彼らに給与というものが存在しなかったからであり、ふだんは恐喝などの犯罪で生活を成り立たせているような状況だった。そして土地を奪われた農民も、その日暮らしができるだけのわずかな給金をえるため首都に流れ込み、同じような人々で巨大化したスラム街で仕事を探さねばならなかった。こうしてハイチでは栄養失調や飢餓が日常的なものになっていった。

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