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palezioさん

ヤルタ会談

第二次世界大戦の終戦の半年前、世界は冷戦に向かって歩き始めた。

1945年2月のヤルタ会談は、東西冷戦のはじまりだと言われます。しかし、実際に対立がはじまったのは二年後の1947年からでした。自由主義のアメリカと共産主義のソビエト連邦が手を結んで連合国として戦った第二次世界大戦からわずか二年で冷戦と呼ばれる状況に陥ったのはどうしてでしょうか?

マンハッタン計画と軍産複合体

アメリカ合衆国とイギリス、カナダは第二次世界大戦のはじまりとほぼ同時に原子爆弾の開発に動き始めました。そして1942年、実際に生産計画が始動します。

プロジェクトは全米で行われましたが、別の部署の研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、全体を知るのは上層部のみというスタイルをとりました。

結果として、複数の研究・開発プロジェクトが知らないうちに核兵器開発という大きな目標に向かって系統的に作られていきました。科学者や技術者、そして生産技術を持つ多くの企業が、活動することになりました。

政府予算だけで18億4500万ドル、現在の資産価値にすると2.5兆円が3年間で投入されました。

デュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリック、IBMなどの大企業が参加。巨大な利権構造が構築されます。多くの人にとって目的不明なマンハッタン計画が、知らない間に進行しました。2.5兆円という巨額の費用が動き、そしてその動きの目的を知る一部の者達はそれを思いのままに利用できる立場を手に入れたのです。

数十万の技術者、労働者、そして世界一流の科学者を擁し、この土地、建物、機械などの固定設備は国家がまかなう

デュポンの取締役会は、マンハッタン計画に参加するに能って、債務を負った場合に政府が負担するというならば、費用と利益1ドルだけでよいと豪語しました。しかし、それは当然でした。すべてのリスクを納税者に負わせて巨大な開発機会を得たのです。

核兵器の成功

1945年7月16日、人類最初の核実験であるトリニティ実験が行われ、成功します。この成功はアメリカにとって資本主義の新しい未来でもありました。

マンハッタン計画に関わった企業は、多くの技術を獲得し、一流の研究ネットワークを手に入れていました。トリニティ実験の成功は、マンハッタン計画で得たチャンスを現実の利益に変える時代に入ったことを意味したのです。

ポツダム会談

5月にナチス・ドイツが降伏し、戦後ヨーロッパの統治を議論することにしていたポツダム会談は、まさにトリニティ実験の翌日7月17日から始まりました。
マンハッタン計画は、ナチスドイツの降伏にこそ間に合いませんでしたが、ポツダム会談に間に合わせることに成功したのです。

ドイツが降伏したあと、ソビエトは着々とヨーロッパの部隊を極東地域に移動させていました。ソビエトは、アメリカの原爆使用の可能性を察知し、スターリンがポツダム会談の前日にも極東軍司令官に作戦開始を早めるよう催促して現場司令官に断られていたほどでした。

7月15日、会議の始まる前の正午ごろ、トルーマンはスターリンから対日戦参加の確約を得ます。

ソ連の対日戦への勧誘は、フランクリン・ルーズベルト大統領時代から何度も行われており、ヤルタ会談でも米国がソ連に依頼していました。ソ連側も対独戦終了後に態度を明確にすると回答していました。

ポツダム会談のとき、米国はルーズベルト大統領が死去したことにより副大統領だったトルーマンが大統領に就任していました。マンハッタン計画の秘密主義は、副大統領であった彼でさえ大統領になるまで知らされていなかったほどだと言われます。

彼はポツダム会談の直前に成功した核実験の結果をうけて、態度を急変させます。米国は、ソ連の対日参戦が今や必要ないと判断していました。

アメリカの軍部も動き始めます。

そもそもポツダム会談はヨーロッパの戦後を議論する予定であり、極東の戦後について議論することは予定されていませんでした。しかし、日本のソ連を仲介とした和平工作が進展中であるという情報を得たスチムソン米陸軍長官は、対日降伏勧告をこの会議で行い、ソ連の懐に日本が飛び込むことを防ごうと主張します。

もともと用意されていた降伏文書の草案をポツダムで改修し、英国の合意をとりつけます。英国はいくつかの修正を要求しますが、最終的に合意。あまりにもバタバタとポツダム宣言の内容が決まりました。

トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに日本への原爆投下命令を承認した。

このときすでに、日本への原爆投下計画は始まっていました。

宣言文に署名した蒋介石など中華民国関係者は宣言文策定や発表の場に参加しておらず、チャーチルも一時帰国していたため、宣言発表時にポツダムにいた署名者はトルーマンのみという酷い状況でした。ソ連は記者団にその内容が公表された後で通知されました。これに憤慨したソ連外相モトロフは、数日遅らせるよう打診しましたが、結局米国が強引にポツダム宣言を発表しました。

原子爆弾の存在を知っていたスターリン

我々は、とてつもない破壊力をもつ新兵器を手にした。

トルーマンはスターリンに対し、このように原爆を示唆しました。驚きも興味も見せないスターリンの様子に、トルーマンは怖れを抱いたといいます。

マンハッタン計画に関わった物理学者のうちの何人かは、アメリカが核兵器の技術を独占することを怖れ、ソビエトも、技術を保有するべきだと考え、情報漏洩を行っていました。

この当時、ロシア人のスパイはマンハッタン計画には参加しておらず、自発的な情報漏えいが散発していました。そのため、米国も彼らのスパイ行為を察知できずにいたのです。

また、ロシアの科学者の一部には、戦前盛んだった欧米諸国の核物理関連の論文数が急速に減少していることを察知していました。ゲオルギー・フリョロフのように、スターリンに手紙で伝えた者もいました。

ソビエトは1943年、イーゴリ・クルチャトフに原子爆弾の開発を命じ、すでに核兵器の開発に着手するとともに、核戦争時代の商業活動や国際政治についてシミュレーションを重ねていたのです。

資本主義における核兵器の意義

核爆弾部分だけでは、核兵器を作動させるには十分ではありません

核爆弾を運搬する手段(飛行機やミサイル)、運搬手段を発射するための「プラットフォーム」(発射基地,潜水艦,空母など)、核爆弾を目標に正確に着弾させるための指揮・管制・通信システム(宇宙衛星群と連結したレーダーとコンピュータのネットワーク,光ファイバー通信網など)といった多数の付属品が必要となるのです。核兵器によって生まれた軍産複合体は、これらを抱え込みながら成長しようとするのです。

トリニティ実験の成功は、核兵器開発が投資の段階から回収の段階へと移行することを意味した。

個々の企業や研究者が、最終的にそれが兵器につながる技術であると意識することはほとんどありません。一旦軍産複合体として成長すると、非常に多くの産業が利益を最大化しようとする取り組みをはじめるというだけなのです。

秘密主義がとれる

「軍事機密である」といえば、秘密が維持できます。

民主主義が支持する核兵器開発

一旦、産業構造としてできあがってしまうと、民主主義の手続きに従うだけで核兵器開発が進行します。国民が核兵器開発を望まなくても、自らの所属するコミュニティや会社にとって都合の良い政党を選んでいくことが、核兵器推進や戦争推進になってしまうのです。

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