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【閲覧注意】戦争時に日本で起こった痛ましい10の凶悪事件【戦慄記録】

国の為 重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

更新日: 2019年03月11日

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moratoriumさん

●小倉黒人米兵集団脱走事件

小倉黒人米兵集団脱走事件は1950年7月11日、小倉市で、基地から多数の在日米軍の黒人兵が集団脱走し、周辺地区の住民に暴行を行なった騒擾事件。

1950年7月11日、在日米軍の駐屯する小倉市・城野補給基地から武装した黒人兵士約250名がフェンスを乗り越え脱走、数名に分かれて繁華街や周辺民家に侵入し、破壊、略奪、暴行傷害、強姦など狼藉を繰り返した。脱走兵はカービン銃やライフル銃を手にし、手榴弾をぶら下げている者もいた。少人数の米軍憲兵と小倉警察はなすすべもなく、アメリカ陸軍二個中隊が鎮圧のために出動する。翌日12日には終息に向かうが、市街戦の末15日に鎮圧したともいう。

彼らは前日10日に岐阜から城野補給基地第24連隊に移送され、近いうちに朝鮮戦争の前線に送られる予定であった。事件当時は国連軍が連戦連敗の劣勢で、危険な戦場に送られる恐怖と自暴自棄が脱走につながったともいう。生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死したともいう。

大事件ではあったが、当時の日本がGHQの占領下であったことから、情報規制のためほとんど報道されず、被害の詳細もわかっていない。警察に届けられた被害は70数件に過ぎないが、被害者や周囲がひた隠しにして表ざたにならない性暴行事件も多数あったと伝えられる。当時の日本人の多くはこの事件を知らなかった。

●通州事件

通州事件とは、1937年7月29日に中国の通州において、中国人部隊による日本人への襲撃が行われ、日本人居留民および日本軍部隊・特務機関が襲われて、日本人らが大量虐殺された事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民の385名のうち223名が虐殺され、女性はほとんど強姦されて殺害された。殺害方法も猟奇的なものが多かったとされる。また朝鮮人慰安婦も殺害されている。

1937年7月29日午前2時、3000人の冀東防共自治政府保安隊が日本軍へ攻撃を開始、殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関を襲撃、日本軍は壊滅し、また日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺された。渡部昇一の主張によると、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている。

中村粲の主張によると、冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なったとしている。

飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった。

旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。

守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた。

●真岡郵便電信局事件

真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手は、疎開をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また北のひめゆりとも呼ばれる。

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。

上陸したソ連軍の攻撃は激しく、民間人に対しても無差別攻撃が加えられた。電信受付の折笠雅子は郵便局へ向かう途中射殺され、避難先の防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいた。

高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決。この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いはモルヒネで自決した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。

この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自決を連絡し、服毒。この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し、本館へ移動させた。

●葛根廟事件

葛根廟事件は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人暴民によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺された。ソ連軍は丘の上から行動隊に対し攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。

ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷したものや、家族が殺害されたものがほとんどであり、大勢が自決した。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった。

生存者に対する襲撃も執拗を極め、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた。ある女性はソビエト兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった。

8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12才の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、一週間余りをかけて葛根廟駅から10キロのところにある鎮西駅にたどりついた。

女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソビエト兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために難を逃れることができたが、他の女性たちは火の回りが早く脱出できなかったようであると証言している。助かった少女はその後、残留孤児として生きることを余儀なくされた。

●久米島守備隊住民虐殺事件

久米島守備隊住民虐殺事件は、太平洋戦争時における沖縄戦の最中から終戦後に発生した、日本海軍守備隊による同島民の虐殺事件。久米島事件とも呼ばれる。

日本海軍の久米島守備隊が、アメリカ軍に拉致され渡された「投降勧告状」を持って部隊を訪れた住民を「敵に寝返ったスパイ」として処刑したことに始まる。

この非戦闘員の処刑は現在の価値観に照らし合わせて人道上の問題があるだけでなく、当時の国内法や軍法、軍規からも逸脱する行為であった。まず海軍刑法・陸軍刑法をはじめ、国内法にスパイ容疑で裁判を経ずに処刑する法規が存在していない。たとえ明らかなスパイを犯罪者として現場で処罰する場合であっても、将校らによる軍法会議が最低限必要である。一介の准士官が主観的な判断のみで処刑を実行することはできず、超法規的措置ないし違法行為の疑いがある。

当時の責任者だった日本海軍通信隊の守備隊のトップであった鹿山正海軍兵曹長は、戦後の1972年にサンデー毎日のインタビューに応じ、処刑の事実を認める一方で、日本軍人として正当な行為であったと自らの正当性を主張した。

●敦化事件

敦化事件とは1945年8月27日に満洲国吉林省敦化でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。日満パルプ事件とも呼称される。

1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えるがそれによって全ての戦闘行動が停止された訳ではなかった。

終戦後の8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。

ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求し従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。

8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。

各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。

ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

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