1. まとめトップ

悲しすぎる日本の年金の歴史

もともと、日本には年金制度はありませんでした。もともとあったのは、公務員に対する恩給制度でした。日本には、いびつな年金制度と戦後補償への歴史があります。

更新日: 2019年05月11日

34 お気に入り 101770 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

palezioさん

恩給制度から始まった日本の年金の歴史

もともと、日本には年金制度はありませんでした。そこには、公務員に対する恩給制度から始まった、いびつな年金制度と戦後補償への歴史があります。

第二次大戦後、日本の保守勢力は、旧日本軍や、大日本帝国時代に指導的な役割を果たした人達によって再構築されていきました。その流れの中で、軍人恩給は巨大なお金の流れを生み出していきました。年金制度が、その軍人恩給に由来する仕組みだということはあまり知られません。

1946年 軍人恩給廃止、軍事扶助法廃止、戦時災害保護法廃止

終戦の翌日、GHQの司令によって軍人恩給と、一般の空襲被災者への保証制度が廃止された。

大日本帝国には、軍人への恩給とは別に、戦時災害保護法という法律があり、空襲などの被害者に手厚い援護を行なっていました。

本来、当時の救貧立法の「救護法」や、戦後の「旧生活保護法」よりも手厚い補償を行なっていました。

軍人恩給と抱き合わせて、非軍人への補償も廃止した日本政府。

終戦の翌年、連合国最高司令官の指令によって、重症者に係る傷病恩給を除いて、旧軍人軍属の恩給が廃止されました。

日本政府は、同時に大日本帝国にあった一般の空襲被災者への補償制度(戦時災害保護法)を抱き合わせて廃止したのです。

1947年 日本遺族厚生連盟設立

戦後の保守勢力に大きな影響力を及ぼした「遺族会」の設立

遺族会は、退役軍人とその遺族のための事業を行なう団体として作られました。第二次世界大戦中に政治の中枢にあった軍部を由来とする遺族会には当然有力者も多く、その発言力は非常に強いものとなります。

遺族会は日本政府の公的な支援を受けている。

英霊の顕彰と慰霊に関する事業を実施している法人として「日本遺族厚生連盟」いわゆる遺族会が、終戦の二年後に活動を開始します。英霊とは、従軍して亡くなった人達を言います。現在でも、国内で最も多くの軍人の遺族が支援する団体として日本政府からの支援を受けているのです。

1952年 サンフランシスコ講和条約締結

連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された条約が締結されます。これをもって日本は主権を回復したとされています。国際法上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結しました。

第11条 極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾

東京裁判の結果を受諾するということは、サンフランシスコ講和条約の第11条に定められた平和条約の条件でした。日本は国際法上、この条件にも従う必要があります。

朝鮮戦争が勃発し、米国の反共政策が強化される中、米国は日本に強い保守勢力の維持を求めました。そのためには、旧軍人の復活は、強い意味を持ちました。大日本帝国政府・軍部に由来する人々を政治経済の中枢に復活させる必要がありました。いわゆる「逆コース」と呼ばれる流れが誕生しました。

1953年 旧軍人軍属の恩給復活

日本の「主権回復」の直後、軍人恩給のみを復活、一般被災者への救済制度は復活させなかった。

こうして、旧軍属の人達への強い優遇が行なわれるようになりました。遺族会は一層強い発言力を持つようになり、保守与党は遺族会の献金を受け、日本国政府の名の下に遺族会を支援するという、巨大な循環構造が作られたのです。

大日本帝国にあった一般の空襲被災者への補償制度は復活させませんでした。

旧軍人恩給を復活し、戦犯者を恩給、扶助料も復活しました。拘禁中の者への支給は停止したものの、裁判で有罪の判決を受けた者とその遺族に、恩給を受ける権利、資格を与えました。

俸給年額は、軍属時の階級によって決まり、現在でも遺族に支払われています。結果的に、大日本帝国時代の軍部の有力者ほど優遇される構造が戦後日本に作られたのです。

旧軍人の本人や遺族に対する援護や慰給支給額は、現在までに総額50兆円を越えています。

1954年には、戦犯拘禁中に獄死・死刑になった者の遺族に、戦死者に与えられる公務扶助料と同額の扶助料の支給を決めました。

復活されなかった戦時災害保護法

サンフランシスコ講和条約の翌年には恩給が復活したにも関わらず、戦時災害保護法は復活させなかった。

東京大空襲をはじめ、各地の民間被害者は戦後補償をうけられませんでした。

本来なら軍人恩給より先に行なわれるべき、民間被災者は救済は全く行なわれなかったのです。

1954年 日本最初の原発予算通過

1954年、第五福竜丸の核実験被曝事故が発生しました。当時ソ連と対立の激化していたアメリカは、日本の反核運動が盛り上がり、共産主義勢力に迎合することを懸念しました。

ビキニ環礁での米国の核実験で、日本漁船が被爆します。その漁船が帰港する直前、わずか一日の国会審議で日本への原発導入が決議されました。当時、米国は日本で反核運動がはじまり、共産主義陣営にとりこまれることを怖れていたと言います。

1954年 厚生年金保険法

1 2 3