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mototchenさん

江戸時代の徳川家と白粉

将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬった。抱かれた乳幼児は乳房をとおして鉛入りの白粉をなめる。乳児も白粉を顔や首にべったりぬられた。鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などがおこり、脳膜の刺激症状が出ることもある。後遺症として痙性麻痺や知的障害がのこるケースもあった。鉛中毒は将軍の子女のみならず当事の大名や公家など上流階級にはよくみられた疾病だった。

p.181-182

昨年11月の「文芸春秋」にNHK大河ドラマ「天璋院篤姫」で13代将軍家定役を演じられた、俳優の堺雅人さんと作家の宮尾登美子さんの対談が掲載されました。その中で宮尾さんは「家定は水銀中毒であったと思う」とコメントしてあります。その根拠として、「乳母が厚塗りの化粧をしていて、その白粉(おしろい)を赤ちゃんがなめるからである」とあります。はたしてこのようなことが原因で水銀中毒がおこりうるのでしょうか。確かに江戸時代には水銀(無機水銀)を含んだ白粉(おしろい)も使われていましたが、その一方では鉛を含んだものも広く出回っていました…
 このような情報から判断すると家定公の場合、宮尾さんの言われるように「白粉(おしろい)が原因の中毒」と仮定すると、どうも水銀よりも鉛の方が、原因として可能性が高いと推測されます。新潮社の「徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明)にも、「将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、それを子女たちは乳房をとおしてなめた」との記述があります。また、病弱であった家定公には脳性麻痺様症状があったという説もあり、これも無機水銀よりも鉛の中毒症状

白粉について

【白粉の種類】
 その原料から白粉を見ると、
・米粉などの穀物から造られる「植物性の白粉」と
・鉛を酢で蒸し水にさらして固めた鉛系のハフニ(鉛白)や水銀系のハラヤ(軽粉)といったの白粉」
の二種類に大きく分けられます。
江戸時代の庶民に使われていた「鉛白粉」は、水銀白粉(軽粉)より、のび・つきが良く、安価だったので広く一般に愛用されました。

福助の鉛中毒事件

鉛中毒の恐怖を印象づける契機となったのが明治二〇年四月二六日、明治天皇、皇后両陛下を迎えての初めての天覧歌舞伎の舞台であった。東京麻布鳥居坂の井上馨外務大臣宅で「八窓亭」という茶室開きを記念して、庭内に仮設舞台を設営し開催された天覧歌舞伎の席上である。出し物は歌舞伎十八番の勧進帳で、出演は団十郎、菊五郎、左団次、福助など当代きっての名優たちであった。場面が極に達し富樫が「斯様に候者は富樫の左衛門にて候」と名乗りを上げた時、義経役を演じていた歌舞伎役者の中村福助の足が突然震えだし、止まらなくなったのである。最初は天覧歌舞伎という大舞台に緊張して震えが止まらなかったと誰しも感じたのであるが、次第に福助が懸命になって震えを止めようとしている光景が発覚、場内は騒然となった。この事件は、「福助の鉛中毒事件」

鉛白粉による鉛中毒の問題は深刻で,明治時代には無鉛白粉が出回りはじめるとともに,1900(明治33)年には鉛白粉が使用禁止となったが,製造禁止となったのは1934(昭和9)年であった.

鉛中毒の発見

1872~73年の冬、ノルウェーでアザラシ猟師17人の
原因不明の死亡事件があったそうなんです。
一昨年、その調査があって、墓の猟師の骨から高濃度の鉛が検出され、壊血病の特徴は見られないことから、彼らは錫食器による鉛中毒であると推定されたそうです。

鉛中毒について

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