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樋口一葉をめぐる諸説をまとめてみた

明治文学を代表する女性作家の樋口一葉。ペンネームの由来、彼女をめぐる男たちの話題、「たけくらべ」の解釈、ドストエフスキーの影響、彼女を中心とした文壇サークルなどまとめてみました。

更新日: 2020年04月03日

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kaizinさん

「一葉」はペンネーム

一葉の本名は“奈津”、“夏子”とも書いたそうですが、ペンネームを考えたとき、達磨大師は足がなくて一枚の葉の葦舟に乗って揚子江を渡った、との故事をもじって、“足”を“銭(あし)がない”と置き換え“一葉”とつけたそうです。

手を隠しているのは、当時の迷信で“手が写ると魂を取られる”と思われていました。明治の頃の肖像写真には普通にあるものです。

"明治29年2月に田中みの子と撮した樋口一葉最後の写真で、明治29年2月29日と3月6日の葉書に「写眞」とあるのがこれである。台紙には「K・OGAWA」とあるので、飯田町で開業した小川一眞(おがわかずまさ)の写場で撮したと思われる。"

小川一眞は夏目漱石の写真でも有名。

樋口奈津が通った中島歌子主宰の萩の舎は、当時の上流階級の夫人や令嬢達が多く学んでいたが、伊東夏子と共に平民三人組の一人が未亡人の田中みの子であった。

父の計らいで明治十九年八月、 小石川(東京都文京区春日)の中島歌子の歌塾「萩の舎」 へ入門した。……萩の舎は当時公家や旧老中・旧藩主などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが 通う歌塾だった。士族とはいえ、 夏子は平民組として扱われた。
 十四歳で入門し、才気煥発にふるまった

萩の舎では、その後講義を行うようにもなった。だが、同窓の三宅花圃の小説「藪の鶯」が女性初の小説として評判となり、一葉は小説を書こうと決意を固めることになる。

右上が父。左写真の右から樋口一葉、母、妹。

日記は焼き捨てよとの遺言にそむき、妹の邦子は小説の草稿や反古・下書きにいたるまで姉の書いたものは1枚も粗末にせず、生涯かけて守り通しました。 「焼き捨てよ」の話は、日記があると分かるとうるさいからそうしたと、邦子が後に語ったともいわれます。 こんにち近代作家の中でも樋口一葉の伝記研究が突出しているのは、資料の整理・保存に尽くした妹の存在あってのことです。

樋口一葉の筆跡

樋口一葉はその書も評価され、一葉も参加した半井桃水の雑誌の題字を樋口一葉が書いている。「たけくらべ」の題字も樋口一葉の原稿をもとにしている。

廻れバ大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも……

中島歌子が千蔭流の書を嗜んだことから、その門下生の樋口一葉も千蔭流の書を学んだ。

半井桃水と雪の日

明治二十四年の春。そんな姉をみかねて、妹邦子は友人の野々宮きく子が「小説家」を知っていると聞き、その人に 是非姉を紹介してくれるよう頼んだ。三月頃のことである。

樋口一葉は半井が新聞小説を書いていた東京朝日を購読していなかったが、文学修行のために半井のもとを訪れるようになる。それまでは歌を学んできたが、文学も熱心に取り組み図書館通いを始める。

桃水は、当時において唯一の、朝鮮語をあやつれる花形記者であり作家だった。

三宅花圃は一葉が半井のことを仲間内でべらべらとよく話すので、どんな関係か疑われかねないと忠告したことがある。

1892(明治25)年2月4日、小説を書き始めたばかりの一葉は、雪の中、桃水のもとを訪ねました。桃水は新聞小説を連載しており、その指導を受けるのが表向きの理由でした。
 桃水は長身で美男子、物腰も柔らかく、一葉は10ヶ月前に初めて出会った日から強く惹かれていました。

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