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インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力のキリがない歴史

インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力が一方的に独立を宣言したのは、1776年のことでした。それから100年後、インディアンの土地を駆逐したアメリカ合衆国は、大陸の外へと影響力を行使しはじめます。最後まで読むと、現代まで繋がっています。

更新日: 2017年01月31日

palezioさん

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移民によってできたアメリカ合衆国は、西部開拓を終えた後どのように拡大したのでしょうか?

マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)

「マニフェスト・デスティニー」、「明白なる使命」や「明白なる運命」などと訳されるこの言葉は、アメリカ合衆国のインディアンに対する民族浄化と黒人の奴隷使役によって進められた白人種の西部開拓を正当化する標語となりました。

19世紀後半、西部開拓とインディアン戦争を終えたアメリカ合衆国は、域外に生存権を拡大しようとし始めた。

インディアンの大陸を実効支配するアメリカ合衆国を名乗る武装勢力が一方的に独立を宣言したのは、1776年のことでした。それから100年後、インディアンの土地を駆逐したアメリカ合衆国は、大陸の外へと影響力を行使しはじめます。

アメリカ合衆国は、19世紀末から現在まで、アメリカ合衆国の覇権確立や維持に都合の良い傀儡政権を、民主的政府か軍事政権かに関わらず作りだし、支援してきました。ついに民衆による革命で親米政権が打倒され、その国の国民自身による政府が樹立された場合にも、直接的な軍事介入、または当該国の協力者を利用したクーデター・内戦を発生させ、政権を打倒し、再び傀儡政権を樹立するという手法を繰り返してきました。

1872年に描かれた「アメリカの進歩」。女神の右手には書物と電信線が抱えられており、背後には1869年に開通した大陸横断鉄道も見えます。

アメリカ合衆国は、西部を「文明化」の名の下に征服しました。この征服は、1900年代で終わったわけではありません、実はその後も現代へと途切れることなくつながっています。

19世紀後半、アメリカの西部開拓は終わり、西海岸までの支配を獲得してしまった。

アメリカ西部への拡張とインディアンとの大規模交戦の終了はアメリカ陸軍の任務を減少させ、軍の指導部は新しい任務を望みました。

それまで、大陸開拓で主導的な立場にあったアメリカ陸軍は、その指導的地位を維持するために、海外への軍事行動を求めはじめることになります。

ハワイのアメリカ合衆国への併合

アメリカは、西部開拓を完了すると、黒人奴隷を使役し、インディアンを侵略することを正当化したマニフェストデスティニーの考え方を、カリブ海や中南米、太平洋諸国に拡張した。

ハワイは、カメハメハ3世の治世の1840年に憲法が制定され、近代国家としての体裁が整っていました。

各国は相次いでハワイ王国を承認し、名実ともに独立国家として認められるようになっていました。

しかし、ハワイの土地は、アメリカ合衆国による乗っ取りの対象となってしまいました。このときの手法は、その後のアメリカの対外侵略の典型的な手法の一つになった重要なものでした。

近代国家への道を歩んでいたハワイに牙をむいたアメリカ合衆国

カラカウア王は、国王といっても、選挙によって選ばれ、自ら足を運ぶ行動的な政治家でした。19世紀の終わり、アメリカ合衆国の侵略に遭うまで、ハワイには主権のある近代国家が存在していたのです。

ハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い、1874年11月には自らワシントンに出向きアメリカ合衆国のグラント大統領とも会いました。日本を訪問した世界最初の国家元首カラカウア王は、明治天皇と会見したハワイ国王でした。

アメリカ合衆国企業のプランテーションを受け入れていたハワイ王国

アメリカ合衆国企業がハワイ王国に進出すると、米国系入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的にも力をつけはじめました。

アメリカ人企業を中心に「親米的」な政治を求める声が強くなっていくと、その動きはアメリカ本土の資本を巻き込み拡大していきます。

ある日、暴力により脅され、国王は政治を明け渡すことになる。

1887年、アメリカ系の経済人・政治家・サトウキビ農場主らが結成した政治組織「ハワイ連盟」を名乗る武装勢力の蜂起が発生します。

米国系白人市民たちからなる武装集団「ホノルル・ライフル連隊」と共謀し、カラカウア王の退位を迫ったハワイ連盟は、カラカウア王に退位の代わりに内務大臣のアメリカ人ロリン・A・サーストンが起草した新憲法を強硬に受け入れさせたのです。

この修正憲法には「国王は議会の承認無しに政治に関与できない」「ハワイ人・アジア人には選挙権を与えない」という条項が存在し、当時人口の1/3にすぎなかった白人に圧倒的地位が与えられることになります。

ハワイの王政が廃止され、「民主主義」が誕生した出来事でした。

強引な改憲、そしてハワイ共和国へ

アメリカ合衆国は女王を幽閉し、住民に危害を加えると脅迫した

1893年1月16日、アメリカ合衆国と関連の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため、国家転覆を計画しました。

アメリカ海軍艦USSボストンが、サンフォード・ドールらを保護する名目でホノルルに侵入、リリウオカラニ女王を幽閉しました。

多くの先住ハワイ人が虐殺され、リリウオカラニ女王は捕らえられた約200人のハワイ人の命と引き換えに王位請求を断念、ハワイ王国は崩壊する。

女王は捕らえられ、拘束したハワイ人の命と天秤にかけて王位を放棄するよう要求されたリリウオカラニ女王は、市民の命を優先し、退位します。

リリウオカラニ Liliuokalani 1838~1917 ハワイのカメハメハ朝最後の女王(在位1891~93)。白人を排除する政権づくりをはかり、王権の復活をねらったが、1893年親米系市民のクーデタで、退位に追い込まれた。ハワイ民謡「アロハオエ」の作詞・作曲者でもある。

1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政廃止を宣言。

こうして1894年、ドールは一方的にハワイ共和国の成立を宣言、同国の大統領となりました。

1895年1月に王党派による最後の大規模な抵抗運動が発生しましたが、武力によって鎮圧されました。

1月16日にはリリウオカラニも『私邸から「大量の武器が発見された」』という口実で逮捕され、廃位されました。「武器発見」を名目としたキャンペーンは、現在まで続く侵略方法の一つとなりました。

1898年、ハワイは「憲法に基づいた民主的な議会の決定によって」アメリカ合衆国に併合されることになった。

武力により奪い取り、白人に圧倒的に有利な憲法を制定させ、その憲法の名の下に、アメリカ合衆国に併合されました。

ハワイ王国と国交のあった大日本帝国は、在留邦人保護の名目で巡洋艦浪速(艦長東郷平八郎)を送りました。

日本のハワイ併合への干渉は、アメリカにパナマ運河建設を強く意識させる結果となりました。セオドア・ルーズベルト大統領は後に、日本の干渉のせいで米国がただちにハワイを併合することができなくなったことについて言及しています。

サンフォード・ドールの従弟であるジェームズ・ドールはオアフ島の中央部の平野に農園を開き、1901年にハワイアン・パイナップル・カンパニーを創業しました。

現在へと続くDoleブランドのはじまりとなりました。

やっぱDoleのパイナップルジュース うますぎや安いしね( ¯﹀¯ )どや パイナップル大好き pic.twitter.com/VC52oEx1yy

米西戦争~中南米に浸食したアメリカ合衆国

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