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3分でわかる「白蓮事件」

NHK朝ドラ「花子とアン」で注目を集めている歌人:柳原白蓮を一躍有名にした「白蓮事件」について調べてみました。

更新日: 2015年09月03日

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saholalalaさん

白蓮事件とは?

大正時代の1921年(大正10年)福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(伊藤燁子)が、滞在先の東京で出奔し、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件。

【事件の始まり】「筑紫の女王」と呼ばれた白蓮の失踪

当時の名は伊藤燁子(いとう あきこ)。
失踪当時、宮崎との間にできた長男・香織を密かに妊娠中。

出典参照:恋の華・白蓮事件

当時の名は伊藤燁子(いとう あきこ)。
本州との鉄道も未だ通じていなかった福岡において、異彩を放つ才色兼備の婦人であった。

※「筑紫の女王」というニックネームは1918年(大正7年)大阪朝日新聞の連載記事タイトルに使用され世間に広く知られたもの。白蓮本人はこれを嫌っていたと言われる。

燁子の生母は妾であったが、正妻の子として育てられた。が、本人がそのことを知ったのは1度目の結婚後の10代半ば。

出典参照:恋の華・白蓮事件

2015/9/3:一部修正

親子ほど年の離れた伝右衛門に子供がいることも知らされず嫁いだと言われる。事件当時で結婚満10年。

妻から夫に宛てた「絶縁状」が大々的に公開される

22日、大阪朝日新聞朝刊社会面に「『筑紫の女王』伊藤燁子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦ませす 愛人宮崎法学士と新生活?」の見出しで失踪の第一報が伝えられる。

失踪の2日後

第一報のあったその日の夕刊、一面全面トップで絶縁状が報じられた。



※当時テレビはもちろんラジオ放送も開始されていないため新聞が主たるメディアの時代。

夫・伊藤伝右衛門の反論がライバル紙に連載される

伝右衛門は福岡へ戻る途中で立ち寄った京都で、22日朝刊の報道を知って驚愕する。

燁子を悲劇のヒロインとして取り扱った朝日に対し、毎日は女性評論家による燁子への批判コメントを掲載し明確に伝右衛門サイドに立った記事であった。

※連載は伊藤家からの中止要請により4回で終了。

炭鉱夫から一代で炭鉱王となった伊藤伝右衛門(結婚当時:伝右衛門50歳、燁子25歳、ともに満年齢)。

複雑な伊藤家の家庭環境になじめずにいるバツイチの白蓮に対し、激昂した際の口癖は「出ていけ」「出してやる」であったと言われる。


※写真上側は旧伊藤伝右衛門邸

【絶縁状公開のねらい】姦通罪の適用を避けるため

朝日のスクープは姦通罪を逃れるため、マスコミを利用して世論に訴え、人権問題として出奔を正当化するために仕掛けられたものだった。

1912(明治45)年7月5日、白秋は隣の年上の人妻と関係を持ち、その夫から姦通罪で告訴され、馬車で市ヶ谷の未決監に拘留される。
(http://tamutamu2011.kuronowish.com/kirinohanajikenn.htm)

【白蓮のお相手】事件当時帝大生の宮崎龍介

事件当時、帝大生だった宮崎龍介。
「筑紫の女王」の連載がきっかけで白蓮と知り合う。

出典参照:恋の華・白蓮事件

在学中から社会運動をしていた宮崎龍介は事件後帝大を卒業、社会運動家・弁護士に。
帝大在学時所属していた弁論部の顧問は大正デモクラシーの立役者・吉野作造。


※炭鉱会社の経営者(資本家階級)の伊藤⇔労働者階級の権利拡充を目指す社会運動家の宮崎という対照的な立場の男性2人

世論を巻き込み一大スキャンダルに発展

新聞での反響は、第一報では燁子の行動を止むを得ない、という同情する世論があったが、二報・三報と詳しい内容が伝わってくるにつれ、糾弾すべき行為とする割合が増えている。

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