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muse256さん

猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年5月21日、ガーナのアクラで51歳で死去。

野口英世を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い。

医師を目指すきっかけとなった左手の大火傷

1891年(明治24年)、左手の障害を嘆く彼の作文が小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。
その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。
この手術の成功に感激した事がきっかけで医師を目指す。

左手は手術しても完全に自由になったわけではなく、「手は指あって尊しとす 指は節あって全うしとす」(=手は指があってこそありがたいものであり 指は節があってこそ完全なものだ)という13歳の時に記した左手を意識する気持ちは生涯消え去ることはありませんでした。
そのため、博士は写真を撮るときに、左手が写らないようにしていたようです

千円札に使用されている肖像写真は、お気に入りの写真

千円札に使用される博士の肖像の写真は、1918年に中南米のエクアドルで黄熱病の病原体を発見した頃に撮影されたものです。
この頃が、博士が研究者として最も脂がのっていた時期で、博士自身、知人へ写真を送る際に、好んでこの写真を使い、そこには直筆のサインをしていたそうです。

少年時代は相撲が強かった

博士は子供の頃、相撲が滅法強かったそうです。
生来、負けん気が強かったこともありますが、火傷をした左手を上手く使い、相撲でいう「おっつけ」が得意だったそうです。

ケガの功名で学問を志した?

博士は野口家の長男でした。因みに、兄弟にはお姉さんと弟がいました。
当時は、長男が家業(農業)を継ぐのが一般的でしたが、左手を火傷したため、力作業が伴う農業を諦めたそうです。
博士は、幼少の頃から頭が良く、太陽の位置をみただけで時刻が分かったといいます。

お母さんは、「自分の不注意で左手を火傷させてしまった」という慙愧の念を持ち続けていました。
そのため、「左手の火傷のため、この子は家業(農業)を継ぐことは出来ないのだから、何としても学問で身を立てさせてやらなければならない」と決意し、自らが人の何倍も働くことにより、博士を家事から遠ざけ、勉強に集中させました。

「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」

イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」

清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」

押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。

並外れた集中力で数ヶ国語をマスター

会陽医院で医学のほか、英語・ドイツ語・フランス語の勉強をしましたが、並外れた集中力を発揮し、1つの言語の原書を3ヶ月で読めるようになったそうです。
博士は、一度引いた語彙は全て覚え、二度と同じ語彙を引くことはなかったそうです。
また、医術開業試験に合格した後、中国(当時は「清」)でペストが発生したことから、博士も医師団の一員として派遣されましたが、中国への8日間の船旅の中で、博士は、中国人の船員と手真似を交えて世間話をしているうちに、簡単な日常会話をマスターしてしまったという逸話も残っています。

「ナポレオンに出来たのだから、私も必ず出来る」と宣言し、1日3時間しか眠らなかった

アメリカのロックフェラー医学研究所で研究をしていた時、博士のあまりの熱心さに「日本人は2日に1度しか眠らなくても済む」と噂されたほど

趣味は浪花節、将棋、囲碁、油絵、……女遊び?!

明治29年(1896)、野口英世は東京で勉強することにしました。
恩師の小林先生は餞別として10円渡しました。
小林先生の俸給は12円でしたからその多さが分かります。

郷里を出たときの所持金は40円でしたが、旅費・下宿代・その他で2ケ月で無一文となりました。
偶然英世の才能を認めた歯科医・血脇守之助さんが、学資として月15円を出してくれることになりました。 
ところがこのころから、悪い遊びを覚え、だいぶ放蕩した模様です。 

血脇さんもそれに気づき、5円ずつ3回に分けて渡すようにしたそうです。

幼少期の貧しさの反動か、英世の金遣いの荒さはかなりのものだったようです。

清国奉天州の牛荘(ニュウチャン)では、月俸200両(テール)で半年間、さらにロシア政府の要請で月俸300両で3ケ月間働きました。
合計で2000両(=2600円相当)は稼いだはずなのですが、毎夜城外の歓楽街で遊び、また悪い友人に騙し取られたりして、結局また無一文で帰国しました。

改名のきっかけは、坪内逍遙の小説

1898年(明治31)の夏、清作は1冊の本、坪内逍遥の小説『当世書生気質』を手にします。そこには、野々口精作という医学生が将来を期待されながらも次第に堕落していく姿が描かれていました。

自分をモデルにして揶揄したような内容に驚いた野口は、小林先生に相談し、小林家代々の「英」(すぐれたことの意)の字をつけ清作を英世に改名した。
しかし、手続には多くの人の手をわずらわし、戸籍上は明治32年(1899)10月、ようやく野口英世と改名できた。

小林は村長に相談した。
よその村の「清作」という人の家族にたのんで、英世と同じ村の別の「野口」という人の籍(せき)に入ってもらい、強引に2人めの「野口清作」を作ってしまった。
そのうえで役場へ行って、「同じ村に野口清作がふたりいるから」という理由で「英世」と改名したのだ。
はじめは「えいせい」と読まれていたが、渡米に先立って「ひでよ」と読んでもらうよう心に決める。

借金王・英世

郷里の友人、八子弥寿平(やこやすへい)さんにたびたび無心

返した気配はなく、かなりの不義理を重ねています。 
お金を借りることの名人で、返さなくても何とも思わなかったようです。

清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。
しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。

血脇さんは新婚の奥さんの着物を質に入れて英世に5円与えたとか。

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